新書を読むシリーズ「女はなぜ土俵にあがれないのか 」内館牧子 幻冬舎新書

新書を読むシリーズ「女はなぜ土俵にあがれないのか 」内館牧子 幻冬舎新書
著者の内館牧子は女性で横綱審議委員だが、大相撲の土俵に女は乗せない、とする相撲協会を擁護するためにこの本を書いた。
相撲の発祥から、古代の「すまいの節会」、江戸時代の興行としての勧進相撲などを経て、現在の大相撲に至る歴史がまず描かれる。ふんどし姿で素手の格闘技として「すもう」は神話時代からあり、儀礼的な要素がはじめからあった。しかし、現在のいわゆる大相撲の直接の先祖は、江戸時代の勧進相撲で、興行(お金を取って見せる芸能)としての要素は当時からのもの。神社の境内を利用して催されたことなどから、次第に宗教的要素を帯びるようになる。国技となったのは、明治時代からである。国家神道と結びついた「国技」としての大相撲を、神話時代の「すまい」と結びつけて、あたかも古代から連綿と続く神聖な国技であるかのごとく、物語を作り上げたのは、相撲協会の卓抜な商業センスによるものであることが、論証される。
さらに、相撲の土俵が実は宗教的な「結界」であって、俵・土俵・房などによって多重に張り巡らされた結界の中で、神聖な宗教儀式として行われる相撲の一面が強調される。これは勧進相撲の時代から次第に発達してきた伝統的なものであるという。
また、勧進相撲の時代から、女性を相撲から遠ざけようという傾向があったことが、文献から示され、現在の大相撲が男性だけで執り行われることと関連付けられる。山岳宗教などの宗教的結界の一部は女性差別に基づくものであるが、一部は単に「修行を邪魔されないように」同性だけで集まるものだと述べられるが、相撲がどちらにあたるかははっきりしないl。
つぎに、大相撲の土俵が、場所ごとに作り直されることが明らかにされ、その破壊と再生は、機械を使わずに手作業で行い、神道儀式に似たものであることが報告される。(かつて、蔵前の国技館では、千秋楽が終わるとすぐに土俵を壊していたように思うのだが)。また、本場所前には地鎮祭に似た神迎えの儀式が土俵上で執り行われ、本場所終了後には神送りの儀式が行われる。この間の土俵は神が降りた神聖な場所である。
宗教儀礼はその核の部分を譲ってしまえば、無意味になる。何が核かはその当事者が決めるべきことで、周辺からとやかく言うことではない。当事者が変わりたいと思えば変わればいいし、変化を拒んで滅びるのも自由だ、ということが主張される。
最後に、もし相撲協会が宗教儀礼であることを主張したいなら、男性であっても正装または礼装の者以外は土俵に上げるべきではないこと、表彰式を神送りの後にすれば、女性でも土俵に上げってもかまわないのではないかと提案されておしまいである。
著者はこの見解を補強するために大学院に入って宗教学を学んだという。文献はよく調べられているが、著者の主張したいこと(土俵は結界、大相撲は宗教儀礼)を、証拠は裏切っているように思うがどうだろうか。ぼくには、結論だけ入れ替えて、だから女も土俵に乗ってよし、としたほうがしっくりくるように思えるのだが。
女性差別の根拠を「血盆経」などに求めているが、それは原因よりも結果。同質集団にとって異質な者はそれだけで穢れなのだ。家族で使う食器は他人に触らせたくない、というのと同じだ。女性にとっては男性が汚らわしいし、男性にとっては女性が汚らわしい。民族には異民族が穢れだ。
大相撲も、男同士でやっているので女が混じると喧嘩になるからやめてくれ、という、漁師が船に女を乗せないのと同じような理由だと思う。