新書を読むシリーズ「右翼と左翼」浅羽通明 幻冬舎新書

新書を読むシリーズ「右翼と左翼」浅羽通明 幻冬舎新書
本書は三部に分かれている。まず第一章で、右翼・左翼の辞書的な意味が整理される。各種の辞典などに記述された定義が並べられて、左翼=進歩、急進的、革命、平等、個人重視 vs 右翼=保守、反動的、伝統、共同体重視 などの概観を得る。
第二部は右翼・左翼という言葉が生まれた歴史的いきさつについて述べられる。フランス革命当時の議会で、保守派(ジロンド派)が右側に、急進派(ジャコバン党)が左翼に座ったためにこの言葉ができた、ということはたいていの人が知っている。しかし、著者はそれは正確ではないという。急進的勢力が左側の席に座っただけではなく、その「左派」が勢力を握ると、その時点での保守派(つまり左派内部の穏健勢力)が右に押し出されていき、左側にはより過激な急進派が陣取るということが繰り返されたのだという。
最初は王党派が右翼ジロンド派が左翼だったが、王党派が追い落とされると、ジロンド派の中からジャコバン党が生まれ、左翼に陣取る。さらに、ジャコバン党はモンターニュ派と平原派に分かれる。モンターニュ派の左翼にはさらにバブーフの社会主義勢力ができる、といった具合だ。
それだけではなく、その後のヨーロッパの歴史が、多くの国でフランス革命をなぞるように進んでいったことが、右翼・左翼という言葉が、フランス革命当時の議会における個別の名称ではなく、ある政治的傾向をさす一般名詞化した理由なのだ。
王権の制限→ブルジョア革命→自由主義→社会民主主義(→共産主義)という発展がフランス以外の国でも起こったので、その「進歩」の方向性で先のほうにある者を左翼といい、左翼への反応として起こった反対運動を右翼と呼んだというのが、著者の分析だ。
現代では、右翼とナショナリズムは強く結びついているが、それは本質的なものではなく、むしろ歴史的に見れば、当初の左翼はナショナリズムであったそうだ。フランス革命の標語「自由・平等・友愛」の友愛は共同体への忠誠心をさす言葉で、むしろ王族こそヨーロッパ全体に血縁を持つインターナショナルな存在だった。ブルジョア革命が成立すると、「国家権力と結びついた資本家」対労働者という対立になる。そこで、万国の労働者よ団結せよ、というインターナショナリズムになるのである。
さらによく分析すると、左翼の根底には理性への信頼に基づいた進歩思想がある。右翼の保守主義は、理性への不信から「自然なもの」(たとえば王権)や伝統的なものを重視する立場が生まれてくる。
そう考えると、右翼・左翼という分類は、非常に「近代的」なもので、近代の終焉とともに無効になると著者は言いたいようだ。第二部の最後に、イスラム社会とアメリカの戦いを分析するときに、右翼・左翼という対立軸は役に立たないことが示される。
第三部は、日本における右翼・左翼的政治的立場の受容史だ。明治初期に急速に近代化しようとした日本では、右翼・左翼とも必要とされた。政府の横暴から人民を解放しようとする左翼、外国勢力から民族そのものを丸ごと解放しようとする右翼という関係だ。しかし、体制が整ってくるにつれ、権力の枠からはみ出して、反政府的な勢力となっていく。
戦後は、共産党が合法化された分、席順がひとつずつずれて、最右翼おもての政治から追い落とされた。そして、政府がアメリカとの講和=軍事同盟を選ぶに至って、左翼は非武装中立という「非現実的な」路線を主張するようになった。それで、世界的にも珍しい「左翼=平和」という概念が日本で生まれたのである。
著者は現代日本の左翼は非現実的で、右翼は思想を徹底していない、どちらも現在の生活を維持しようとしているだけで正義を欠いている、と両者ともに強烈に批判する。左翼の言うとおりなら、日本国は解体して国民は国際社会の奉仕者とならなければならないし、右翼の言うとおりの理念を貫くならば、アメリカの核の傘から独立して、独自の安全保障体制を築かなければならない、というわけだ。
右翼・左翼という政治的立場で割り切れるような理念では、これからはやっていけないということが言いたいようだ。旗色不鮮明な著者の自己弁護の本だったかもしれない。ともあれ、「桜チャンネル」の二・二六事件に関する本を紹介するための、知的バックボーンとしては非常に役に立った。