『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』

ここ数年の懸案だった店内の照明交換をついに実現。本日はまず、奥側の蛍光灯をLEDにした。棚配置を変えたのに照明がそのままだったので、暗い場所があったが、全体がすごく明るくなった。

自宅玄関脇にある沈丁花の花が咲いた。つぼみの時には感じなかった香が、出入りの度に我われ家族を和ませてくれる。

『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう: 意識のハード・プロブレムに挑む』鈴木貴之(著)を読み終える。

著者はまず、意識を知覚、感覚、感情、気分、思考、イメージなどが含まれる生きていく上で経験するものの総体と定義する。その意識経験を自然科学的な枠組みのものとで理解する方法(意識のハード・プロブレム=意識の自然化)を探るのが本書の目的。

全半は意識のハード・プロブレムとはどのような問題なのかを明らかにして、主要な理論を紹介し、批判的に検討する事に費やされる。後半は著者自身による解決の試みだ。

著者の戦略は「表象のミニマル理論」である。

ミニマルな表象理論とは、意識の表象理論の一種であり、本来的表象はすべて意識経験であるという考え方だ。表象理論とは意識経験は全て知覚経験だという見方である。

「表象」とは何かに代わって指し示すもののことであり、記号や象徴などのことだ。表象の特徴「何かを志向する」ことである。記号などは、解読者などの他の表象の存在を前提して初めて志向性が成立するのに対して、意識はそういう前提なしに成立する志向性であり、それ自体で本来的に表象である。

意識にはクオリア(感じ)がともなうが、これは意識の性質ではなく、経験の志向対象(外界の事物)の性質である。たとえば、赤いリンゴを見るとき赤のクオリアがあるが、それはリンゴの性質であると考える。

意識において経験される性質は物理的性質に還元されないが、その生物の生存に役立つように組織されているという点で、事物の客観的な性質だ。

ある生物が本来的表象を持つということは、遠位の事物に対して行動できることとおなじである。直接的な刺激そのもに反応するだけではなく、刺激から間接的にえられる事物(つまり直接的な刺激と遠位の事物の関係が表象)にたいして行動できる。

そのような生物(ロボットも)原初的なものであれ「意識を持つ」と言ってよいというのが、ミニマルな表象理論の立場である。

と書いてもわかりにくいと思うが、本書はさまざまな学説を非常にわかりやすく明解に解説しているし、世界観の転換をせまる「ミニマルな表象理論」も自然になじめるように説明してる。決して難解な本ではない。その明解さ簡潔さが、要約を不可能にして、この私の文章を意味不明なものにした。捨て去られる理論の部分を切り捨てたとしても(批判的検討をする際の考察が後の理論構築に再利用されるので)、著者の理路を追うためには半分以上のページが必要だ。

もっとも、著者の理論的な主張の骨格は217ページに箇条書きにされているので、急いでいる人はそれを参照するのがいいだろう。

ただし、著者の結論で本当に意識のハード・プロブレムが解決されたかどうかは、難問である。

本来的表象は神経系に由来すると著者はいうが、同じような機能をもった何かかがあれば組成は関係ないともいう。だから、遠位の事物に反応して行動できるロボットには意識があると言ってもいいということになる。では、生物個体を飛び越えて「種」のようなものはどうだろうか。種は環境の変化に応じて進化という反応をしているようだし、そこには種の保存という目的があるようにも見える。あるいは「地球システム」のような有機的な組織は?

意識の自然化を精密にやろうとした結果、究極の擬人化が起こっているようにも思われる。そこでの我われの疑問は、「彼に本来的表象が備わっていることをどうやって知りうるか」である。しかし、これは他我問題と呼ばれる別の主題であり、本書の守備範囲外だ。

理論的な点はさておき、著者の直感を示す本書の山場は以下の文章だろう。

「本来的表象を持つ生物は、世界を事物の物理的性質に即して表象するのではなく、みずからの関心に応じて、独自の仕方で分節化する。したがって、ある生物が本来的表象を持つときには、その生物に世界はどのように現れてるかを、有意味に語ることができる。これは、その生物の視点について語りうるということにほかならない。本来的表象を持つかどうかという違いは、世界に対する視点を持つかどうかの違いであり、すなわち、意識経験を持つかどうかの違いにほかならないのだ。」(159ページ)