新書を読むシリーズ『いま、働くということ』大庭健 ちくま新書

新書を読むシリーズ『いま、働くということ』大庭健 ちくま新書
大庭健は哲学者。かつて『はじめての分析哲学』という本を読んだのを途中で思い出した。『はじめての分析哲学』は内容はともかくとして、文章が非常に読みにくかったのだが、この『いま、働くということ』は重要な部分は何度も繰り返されるし、例としてあげられる敵対する主張が著者の主張と混乱するようなこともないし、非常にわかりやすく書かれている。
荒廃する労働環境の中で「働くことの意味」を人間が生きることの根源にまで立ち返って問い直そうとする本。


I.働く環境の破壊
まず著者は、本書の課題を「『働くのは生きていくためだ』という圧倒的な正解の前で思考を停止させてしまわずに、1.意味への問いが、手段としての有用性への問いにすべっていくことをつねに警戒しつつ、しかも2.イデオロギー的な言説への免疫を活性化させるような仕方で、「目的/手段」図式に回収しきれない働くことの意味を探求すること」、と規定する。(46ページ)
II.何のために働くのか
そしてまず、「人類は1.それぞれに役割を分担し合う関係のネットワークを形成して協業を遂行し、2.そうした協業をつうじて全体として自然に働きかけ、3.その成果を配分・消費することによって、各人の生命と生活を維持し、再生産している。そして、このように「間柄をなして・自然に対して」遂行される協業の網目となる個々の活動が、仕事なのである。」(54ページ)といきなり結論を出してしまう。
この結論に対して、さらに深く分析が加えられてゆくのはさすがに哲学者の仕事である。
動物との比較をしつつ、著者は人間の「非財の現前」としての言語活動を、記号への反応ではなく、相手の思いを理解しなければ成立しないコミュニケーションだと規定し、働くということは、このようなコミュニケーション行為の一種で、「協業に参与するということは、歴史を共有しつつ未来をともにする同士として、それぞれの行為を理解し応答していく間柄を生きる、ということに他ならない。」(66ページ)として、人間の「間柄」の分析に入ってゆく。
人間のコミュニケーションには不確定性がともなうが「役割」という概念によって不確定性を軽減させることができる。「人間の存在が対他存在であるかぎり、その存在の肯定には、相手による承認が必要不可欠である」(82ページ)が、「個人的役割」(身近特定の個人との間柄での役割)と「社会的役割」(不特定の人との間での役割)という二つの役割概念によって、相互に存在を承認しあうことができる。
では万人に対する「社会的役割」はどのようにして成立しうるのか。「経済活動においてどういう位置にいるか、ということを示す役割こそ」「類全体として『間柄をなして・自然に対して』働きかけていく人間の協業のネットワークの全体において、どういう網目となっているか、を示している」。(94ページ)
「さまざまな仕事は、それぞれに相互に依存しあい、全体として複雑な協業を構成している。」「自分の活動が、こうした相互依存のネットワークの網目の一つを織り成すようになる、ということが、すなわち仕事をもって働くということなのである。」(97ページ)
さて、それだけであれば確かにそのとおりだが、「現代における」働くことの意味を問うことにはならない。ここまでは予備分析で著者の言い分はおそらくこの先にある。
「個人的役割」(対面の間柄)は社会に対して開かれていなければ、お互いに合わせ鏡のようになって、どうどう巡りに陥る。「社会的役割」は不特定の他者に対する役割なので、誰であってもかまわない。したがって、人間としての対他存在の相互承認には十分ではない。(101ページ)
「過去・現在そして未来に連なる、対面での相互承認と、互いに匿名の、膨大な相互依存のネットワークへの参与と、この二つは相俟って、私たち人間の存在、そのつど他社に対して‐何者かとして‐ある、という存在を可能にしている。」(103ページ)
「”みんなが必要とするもの・必要とするときが来るかもしれないものを、それぞれお互いに作って届けあう”という相互依存の膨大なネットワークにおいて、今自分のやっていることが、ささやかなりとも一つの網目となっている。このことが具体的に確認できたがゆえに、私たちは、自分の社会的な存在が承認されているという安堵を感じる。こうした安堵は、まさしく『非在の現前』としての言語をあやつれるがゆえに、自己と類全体とを同時に意識する生き物である人間にとって、きわめて重要である。」(106ページ)
III.人間の協業の仕組み
協業の編成のされ方は「共同体」的な関係を支える原理と、「市場」での関係を支える原理の、二つの類型によってモデル化できる。(113ページ)
「しかるに、発達した市場社会にあっては、人的な依存関係は、ごく狭い親密圏に縮退し、日々の生活は、膨大な物的依存関係の中で営まれる。そこでは、人生の豊かさは、購入して消費しうる「商品の多さ‐として‐現れる」(マルクス)。各自の存在の社会的な相互承認は、いまや物的依存関係という具体的な前景に隠れて、抽象的にしか理解されなくなる。」(162ページ。この文章の直前に、前半部の結論が要約がある。)
「市場社会にあっては、社会的に有用な働きであるか否かは、市場において、その活動の成果に買い手がつくかどうか、によって判断されてしまう」が、不払い労働などある種の経済活動は「市場で対価を受け取ることなしに、他の経済主体に恩恵(あるいは被害)を与えることもある。(171ページ)
IV.生きることと働くこと
「かつて生産は、穀物や家畜自身の生命の再生産の活動に寄生しており、人間の生命の再生産も含めて、生態系全体の中に埋め込まれていた。しかし、今やそうした生命の再生産が織り成す生態系は、ものの生産の外部環境として、経済活動の外部へと放逐される。」(187ページ)
「生きること、生命を維持し再生産することが、働くことの「外部」に放逐されるなら、生きることそのものもまた、一面化されてしまう。」(188ページ)
発達した市場社会では「生きるとは、自分が所有する身体・能力を活用して、自分の生から、快と満足を搾り出すプロジェクトだ。」という人生観に陥りやすい。(191ページ)
しかし、「いのちの上に自我が誕生する」のであって、その逆ではない。自己が身体やいのちを所有しているのではなく、いのちや身体が自己を支える根拠である。(196~208ページ)
「近代以降、市場社会の発達とともに、この生命の私有化に、新たな拍車がかかった。」「市場経済の発展とともに、働くこと(ものの生産)と生きること(生命の維持・再生産)が切り離され、生命の再生産は、商品の生産の「外部」へと追いやられた。その結果、生きることもまた、商品を消費して生命を維持し再生産する活動へと、一面化されてしまった。」(224ページ)
しかし、「仕事をするということは、生きることの具体的な姿であり、生きるとは快と満足を搾り出すプロジェクトへと切り詰められえない」(232ページ)
「仕事を持って働くということは、『間柄をなして・自然に対して』働きかけていく協業の網の目を織り成す、ということであった。そうした協業は、市場社会においては商品としての財・サーヴィスの流れという姿で現れてくる。しかし、そのようにも描かれうる協業は、同時に、いのちの再生産の連続でもあった。したがって、協業に参与することをつうじた相互依存は、いのちの連鎖のうえでの相互依存でもある。」(226ページ)
236ページからは後半部の要約。そして、全体の結論は242ページである。
「こうした連鎖の中での仕事の意味を考えるときには、そうしたいのち/生の連鎖の健やかさへの気づかい、育ちつつあるいのち、傷つけられたいのちへの気づかいもまた呼び起こされてくる。」「こうした気づかいは、日々の現場にあっては確かに”余計なこと”・”考えてもしようもないこと”とされよう。いのち/生の連鎖は、市場における財・サーヴィスの流れとは異質であり、しかもその流れのリズムよりも何十倍、何百倍もゆったりしている。したがって『この仕事は、いのち/人生の連鎖の中で……』という問いは、通常は生産の外部での呟きにしかならず、”ノイズ”として処理されてしまう。」「しかし、こうした”余計なこと”が、自らの社会的存在の肯定の基盤となる仕事の意味を考えるときにも、職業倫理を考えるときにも、そして時としてはイノヴェーションの源としても、実は大切なのである。」
著者は自己論・他者論や倫理学などの本を何冊か書いているらしい。本書の前半部はそれらの著書で語られた哲学理論の応用編といえるかもしれない。自己論の簡単な解説書という側面もある。その意味でもお得な本だ。