新書を読むシリーズ 「ダメな議論-論理思考で見抜く」飯田泰之 ちくま新書

「ダメな議論-論理思考で見抜く」飯田泰之 ちくま新書
社会経済問題の原因を分析する解説型の言説に関して、「誤ったもの」「無用なもの」「有害なもの」を機械的な方法で見抜こうという試み。
言説は大量に氾濫していて、「正しく、有用なもの」を見つける手続きはむずかしいので、どの主張を支持するか自分の頭で考えることは非常に手間がかかる。しかし、はじめから「ダメな議論」を除いてしまえば、この手間は格段に減らせる。つまり、議論のコストと採算に関する技術書である。
では、その技術とはどんなことか、というと、5つのチェックポイントでダメな議論を見抜こうというもの。
1.定義の誤解・失敗はないか。」
2.無内容または反証不可能な言説。
3.難解な議論の不安定な結論。
4.単純なデータ観察で否定されないか。
5.比喩と例話に支えられた主張。
まず、「常識」はなんとなく信じられているだけで、根拠のない場合が多いから注意して、自分で考えよう、という主張には賛成できる。
しかし、チェックポイントそのものは、非常に役に立つ場合と、ほとんど言いがかりではないかという場合とがあって、必ずしも採用できない。
まず、1の用語の定義だが、一般に認められテいる用語の定義を誤用している場合は「ダメな議論」といえるだろう。しかし、定義があいまいな用語を議論の根拠にしてはいけないとなると、たとえば正義や愛や青春については、何も語れなくなってしまう。いや、「いす」のような具体的な用語も車の座席やオットマンのような境界領域がある。残るのは厳密に定義された学術用語だけである。議論を通じて用語の定義を明確化していく、ということが多いのではないか。
2に関しては、たとえば、もっと公共事業をしないと景気が停滞するぞ、といった予想ないしは提案のことだ。景気がよくなれば公共事業が十分だったと言うし、悪くなれば不十分だったということになるので、常に当たる予言だ。しかし、これも将来に対する提案であれば、このような形式をとらざるを得ない場合がある。たしかに、その部分だけ取り出してみれば無内容だが、根拠になるべきところが他で示されていれば、それでいいのではないか。
3の難解な議論うんぬん、というのはレトリックとして気をつけたほうがいいのは間違いない。難解でなくても、何々博士の研究によれば式のいんちき薬の宣伝と同じたぐいだ。要はそのデータなり理論なりを援用した根拠が示せればいいのだ。何の批判も説明もなく唐突に理論が出てくれば、単なるこけおどしの可能性大である。
4のデータ観察による否定は重要だ。おそらく、この本のチェックポイントなのかでは最重要だろう。というのは、他のポイントは「根拠にならない」というだけで「誤っている」と判定できないが、データ観察によって否定されれば確実に誤りだと判定できるから。たとえば、「凶悪少年犯罪の増加をとめるには、刑法適用年齢をさげろ」などという議論は、少年犯罪が激減していることをデータで示せば、無意味だということがすぐにわかる。
5の比喩と例話が根拠にならないことはあたりまえだ。3と同じでレトリックの問題。ただし、例があるということは「必ずしも間違いではない」ということだ。いかにも間違っていそうな説に対して、ひとつ例をあげて可能性を示すことはありうる。
つまり、結論がダメな議論を見つけるのではなく、議論のその部分には論証手続きがない、というふるいのようだ。確かに科学の論文では、すべての主張について論証が求められる。しかし、一般的な政治や社会に関する議論では、仮説のまま意見を述べることがしばしばある。食料の分配が不公平だったから暴動が起きた、などという場合、では公平に分配していたらどうだったは確かめようがない。
データによる否定と、定義の間違い以外は、「まったくダメな」議論を粗くふるいわけるより、かなり厳密で正しそうな議論を見つける(そして、いいかもしれないが証明できない多くの議論を捨ててしまう)細かい網目のように思えるのだが。