高校生のための論理思考トレーニング

お前は、本屋のくせに本を読まないで、飯を食って音楽を聴いているだけだ。
と叱られたので、最近読んだ本のことを書く。
このところ新書がおもしろいので、よく買って読んでいる。
まずは『高校生のための論理思考トレーニング』横山雅彦。
論理とは英語のことだ、という内容の本。ここで言う「論理」とは、いわゆるロジカルリーディングとか論理的に話しましょう、とか言うときの「論理」。論理学のことではないので、排中律とか対偶とか言うような用語は出てこない。
英語では常に、明確に主張を述べなければならない。なるべく言わないで察してもらおうとする日本語とは根本的に違う。日本では、配られたプリントが足りないときに「足りません」と言うと、もう一枚もらえる。これが日本語の(察するという)心。英語では、足りないではなく、「もう一枚ください」と言わなければならない。これが英語の(ロジックという)心。
英語によるコミュニケーションは議論(ディベート)というかたちで行われる。要求なり判断なりを常に明確に主張(クレーム)しなければならず。クレームには論証責任がともなう。論証はデータとワラント(そのデータを用いる根拠)から成り立つ。
例:「UFOは実在する」 クレーム
  「イチローが見たと言っている」 データ
  「イチローは正直だ」 ワラント
対話相手は、データかワラントに対して反論しなければいけない。これは、「UFOは実在しない」とクレームに攻撃すると水掛け論になってしまうので、「イチローが見た」とか「イチローは正直だ」とかの根拠のほうを崩しにいかないと議論にならない、ということ。
論文は一人ディベートだから、クレーム・データ・ワラントのかたまりで段落をつくっている。そして、どのセンテンスが、クレームであるかは形式的に見つけ出すことができる。1、相対的形容詞を含むか、助動詞(述語動詞に対して、話し手が判断などをくわえる)があるか、主観的な動詞がある。2必ず現在形である。3、従属節や副詞句でない部分(スケルトン)に論証責任がある(1、および2のようになっている)。
また、クレームが段落の先頭にあれば、法則から個別事例が導かれる演繹型、末尾にあれば、さまざまな例から一般事例を導く帰納型である。段落の途中にある場合は、まず対立する主張が述べられてこれに反論する形でクレームが出されるので、直前に必ずbutがある。
日本語には、もともとこのような意味での「論理」はなかったが、明治以降の言文一致運動の中で、「翻訳」というかたちで論理をとりいれた。しかし、冠詞がなく文法構造が根本的に異なる日本語では、論理を示す文法指標がすべて失われている。
したがって、現代文で「論理」をあつかうのは非常に難しい。
日本語は非論理的なのではなく「前論理的」なのであって、この日本語の特質こそ国の個性である。明治の日本人は論理を取り入れつつ、前論理的な特質を守った。論理は特殊英語的な発想であって、普遍妥当なものではないから、完全に論理的にしてしまうと日本語は破壊されてしまう。どんな風に論理を取り入れつつ、前論理性を守っていくかが今後とも課題だ。
以上、紹介終わり。
こんな風に書くと日米比較文化論のようだが(その面もあるが)、「高校生のための」とあるように、学参としての一面もある。論理構造を示す統語論的指標を見つける習慣をつけると難関大学の長文試験も簡単(内容を読まなくても)に解けるという。また、日本語の現代文を読むときにも役に立ちそうだ。現代文と呼ばれるような評論文は、根本的には英語的な発想で書かれているからだ。
古来の日本語を「体読」すべし。とか言っているのだが、日本語のよさとは何か、具体的にはどういう特質か、それを守るには今後どうしたらよいか、「論理」との折り合いをどうつけていくのか、というような考察がもう少しほしかった。