高原書店の時代

6月3日に神田神保町の@ワンダー2階、ブックカフェ二十世紀でトークイベントを行った。連続講座《古本屋的!》の第二回、題して「高原書店の時代」。

まだ新古書店もインターネットもなかった1985年に、高原書店は600㎡という巨大店舗を作った。10万冊を超える一般書と数万冊の専門書がある、複合型の店舗だった。大量出版の中古書籍をちゃんと取り扱える初めての店だった。80年代末には後のネット通販型の商売への第一歩を踏み出した。新古書店のネット古書店の前史として、1990年前後の古書店情況を語るという主旨である。

実際には、私が高原書店で働いていたころの思い出話をした。13人という少人数ではあったが、当時アルバイトしていた人も来てくれて、アットホームな雰囲気でお話しできた。用意した原稿は1時間弱のものだったが、会場とのやりとりが少しあって、70分ぐらいしゃべって質疑応答になった。

戦後型古書店からネット古書店に至る間をつなぐ、ほとんど唯一の古書店を作った高原坦社長の思想と、その具現である高原書店についての研究は、まだまだ緒にもついていないように思う。今後の研究が待たれる。

以下、講演の元にした原稿である。

 

○みなさん、今日はお集まりくださってありがとうございます。本日は、少し細かい話しをします。1990年前後に、東京郊外の古書店で、実際にあったことです。事実ですから、面白いかどうかはわかりません。そこから、何か意味を見いだすのは聞いてくださる方々にゆだねます。

古書店経営の理論的な面については、著書である『古本屋になろう』や、東京古書組合主催の入門講座で何度もお話ししてきましたので、まだの方はそちらを読んでください。

○POP店開店まで

・話しは1984年の初夏に始まります。当時、ぼくはある事情によって、どうしても早急にアルバイトを見つける必要がありました。後に女房となり、よみた屋のパートナーともなる当時の恋人に、向いたアルバイトを相談した結果、古書店であるという回答を得ていたぼくは最初に通りかかった古書店の店頭にアルバイト募集の貼り紙を見て、迷わず面接に応じました。

そのまま事務室に通されて、試験用紙を渡されてました。回答している途中だったか、最後まで回答して採点している途中だったか、前半の難読漢字と常識問題だけで、後半の算数を採点しないまま採用が決まったのだけは憶えています。

その時の高原坦社長はゴム鞠のような肉体に筋肉を充満させて、ぼくが想像していた古書店主のイメージとは全く違うものでした。留守番のおじさんか誰かと思ったものです。

・運命の出会いだったかもしれません。というのは、ぼくの所属する和光大学岸田秀研究室の先輩が暫くそこで働いていたのです。その時すでにやめてしまっていましたが、彼が作った案内表示がまだいくらか残っていました。そののち、岸田研究室の同輩や後輩、その関係者が何人も高原書店で働くことになります。

当時の高原書店は、小田急線町田駅から5分ほど離れた裏通りにあり、周囲には飲食店や輸入レコード店、古着屋などがちらほらあったのですが、繁華街ではありませんでした。

専門書を扱う「本店」がビルの2階にあり、その向かいの路面に、一般書を扱う支店がありました。初めて出勤した日は、レジの操作を簡単に教わったあと、ひとりで店に放置されました。そのとき店主に言われたことは、「買取のお客さんが来たら本店に電話して」、それだけでした。

支店では、全ての本を定価の半額で売っていました。お客さんがカウンター、と言ってもただの机ですが、に本を持ってこられると、定価の半額を暗算してお金をいただきます。本にあらかじめ書いておくのではなく、ただ「定価の半額」と棚に表示して、売るときに計算するのです。たとえば、350円の文庫なら、175円の5円を切り捨てて170円で販売していました。

古書店の仕事なんて、何一つ知りませんから、気を付けの姿勢で座っていることしかできません。その夜には、緊張のために背中の筋肉が針金のように硬くなっていました。二十歳の時のことです。

・本を売りに来てくれる方があると、向かいの本店から、査定のできる人に来てもらうのですが、ぼくにはその金額がとにかく驚きでした。

たいていの人は、紙袋にいっぱい、数十冊ぐらいずつ持ってきてくださるのですが、支払う金額は数百円からせいぜい千円ぐらいです。その本の定価を合計すると、数万円はあるはずですから、買値は十分の一以下です。いい年をした大人が、重たい荷物を運んで、数百円を受け取って帰っていくということも、理解できませんでした。

新刊書店のマージンは定価の2割です。1000円の本は800円で仕入れることになります。ただし、新刊書店の場合は売れた本だけの仕入れ代金を支払います。一定期間に売れ残ったものは、出版社に返品してしまいます。

その2年前に新刊書店で半年ほどアルバイトしていました。今は知りませんが、当時の新刊書店での男子アルバイトの主な仕事は、返品作業です。まだ本にバーコードはついていない時代ですから、返品の伝票も手書きでした。それで、委託再販制という新刊流通の仕組みは、ある程度知っていました。

しかし、実際のコスト感覚の中で考えたことはありませんから、古本の買取価格が異常に安く感じられたのです。

支店では、全ての本を定価の半額で売っていました。そのときの、漠然とした感覚では、「売上の」ではなく、「定価の」割合で買取価格を想像していたのだと思います。

普通の商品は売れる見込みに基づいて生産されます。ところが、古書は計画的な製造ではなく、持ち主が「いらない」と感じたときに発生するわけですから、売れる見込みが薄いものも古書店に持ち込まれます。世の中にありあまっている本は、売れる速度より入荷する速度の方が速いのです。そういうものは、だぶついているので、棚に並べることすらできません。

古本は、一冊一冊全部違う本ですから、管理にも手間がかかります。100円ショップで、あんな安い商品を扱って採算がとれるのは、同じ品物を何千個と売るからです。古本屋では、価格や売り方を決めるのも、その一点限りです。時間をかけて内容を吟味して考えても、目録に何行説明を書いても、同じものがたくさん売れるわけではありません。

しかも、仕入れたものが全部売れるとは限りません。むしろ、売れ残るものの方が多い。当時の古書店は、どこも小規模でしたから、売れそうにないものは最初から買い取らない。断っていることが多かったと思います。ところが、高原書店では持ち込まれたものは全部選ばずに引き受けていました。

だから、全体の量の割りに安く感じたのです。そして、持ち込まれる本の大部分は、小説の単行本や実用書のような一般書か、まんが文庫でした。雑誌は多くなかったように思います。

・買い取った本は、支店にそのまま置く本と、本店に持って行く本に分けられます。支店はすべて半額なので、簡単に汚れを取ってそのまま棚に並べるだけです。ビジネス書、とか文芸書とか分類してある棚に並べるのはすぐできるようになりました。

当時は、そういう一般書を置いている古本屋はほとんどありませんでしたから、いつもお客さんで混み合っていました。電車のつり革ぐらいの間隔でお客さんが並んでいて、本を棚に並べるのにどいてもらわなければなりませんでした。

レジはありましたが、まだ売上をノートに記帳していました。金額を300円、500円と一行ずつ書いていくのです。ぼくは、よく記入漏れを起こして叱られました。

本店には専門書を置いていました。古本屋らしい本です。こちらは、だいたい定価の7割ぐらいの値段で売っているものが多かったと思います。展覧会のカタログのように、定価のはっきりしないものも本店でした。

雑誌は支店だったはずですが、それほどなかったのではないでしょうか。

まだ、アルバイトを始めたばかりのころ、「心理学の本はどこか」と聞かれて、そういえば専門書はないや、本店に行っているのだなと理解した覚えがあります。

お客さんから買い取った本を、本店用と支店分に切り分けするのは、すぐにできるようになりました。

・高原書店では、古くて定価の安すぎる本を除けば、定価以上のプレミアを付けて売るということは、ほとんどしていませんでした。けれど、店員たちは古本マニアですから、文学の珍しい本なんかを安く売るのが面白くなかったようです。自分で買ったりしていました。だから、高原書店には社員割引はありませんでした。

・翌1985年の春には町田駅前のPOPという商業ビルに、ワンフロア150坪という巨大な店を出します。実際には200坪くらいのフロアでしたが、当時は大規模店舗法という規制があり、一部を売場ではない「本の情報サロン」として出版目録の閲覧などができたり、絵画や写真の展覧会が開催できたりする場所にしていました。

この準備は、正月前後から始まったと記憶しています。それ以前に、神奈川県大和市の三ツ境駅前に大型の長期催事をやっており、そこで使った棚や品物を並べました。棚は物品棚という、倉庫で使うような簡単なもので、背板はなくて両面から本を取り出せるものでした。ビルオーナーの要望で、グレーの棚はスプレーで白に塗り直しました。

運び込まれて積んである本を、分類にしたがって棚に並べていくのが、冬休みの仕事でした。営業していないので、空調がはいっていませんから、手袋をした指がかじかみました。

POP店は、本店と支店を統合するかたちで、AフロアとBフロアに分けられていました。Aフロアは専門書や美術書、戦前の古書などを並べるコーナー、Bフロアは一般書と文庫まんが雑誌です。二つのフロアを繋ぐ通路部分には、絶版文庫と全集が向かい合わせに置かれました。

棚と棚の間隔はかなり広くて、ゆったりと並べていたと思います。正確には覚えていませんが、300面ぐらいの棚があったのではないでしょうか。

社長も、開店までに在庫が充分揃えられるかが不安だったようで、直前になってしっかりと埋まった棚を見て、珍しく興奮していました。しかし、量は足りましたが、質はともなっていなくて、同じ本が何冊も並べられていたりしました。試しに、目立っていた石川達三『青春の蹉跌』の文庫本を数えてみると50冊以上ありました。

○驚異の古本屋

・そのビルは、もともと「緑屋」というデパートのものでした。倒産して、貸しビルになりPOPビルと名付けられました。地下で小田急線町田駅とつながっていて、一階にはファーストキッチンやラーメン屋さんなどのファストフード、2階は飲食店、3階が高原書店でここまではエスカレーターが通っていました。上階はオフィスや学習塾がはいっていたと思います。最上階にはビルオーナーが経営するカルチャーセンターがありました。

オープンしてすぐに大きな話題になりました。「古書業界の風雲児」として新聞にも取り上げられ、取材が連日来ました。帝国データバンクもやって来ました。

当時は10坪あれば「広い店」といわれた時代です。たいていの古書店の家賃が10万円以下でした。そこで、200坪近い面積の古本屋ができたのですから、業界の話題にならないはずがありません。

お店の3分の1がAフロアで専門書を定価の7掛けぐらいで売る部分、3分の2がBフロアで一般書を半額で売る部分です。まんがや文庫もこちらでした。今までの本店と支店を踏襲したやり方です。雑誌もBフロアで、当初は多くありませんでしたが、次第に壁面はほとんど雑誌になっていきました。

ぼくはたいていそのBフロアに立っていました。最初は、支店時代と同じように椅子を置いたのですが、とても座っている暇はありません。数日で撤去しました。レジは2台並べましたが、朝夕を除けばずっと稼働していました。レジの後ろに作業台があり、ここで本を拭いたりして、ワゴン台車に乗せ、棚に差しに行きました。

当時はまだ、まんがを透明な袋に入れて売っている店は、新刊書店でも一部でした。しかし、立ち読みがあまりにも多くて、追い払っても追い払ってもきりがないので、袋に入れることにしました。そのやり方も、誰も知らないので、見よう見まねで工夫しました。

ただ、開店の数日を除くと、売上は広さの割りには大して伸びず、数年は苦しい経営が続いていたようです。やはり、品物の質が追いついていなかったのだと思います。当時の高原書店では、アルバイトでも全体の売上を知っていました。売上の主力はBフロアでしたが、それでも本店時代に比べてAフロアは健闘していたようです。

・仕入れはたくさんありました。古本屋にしては比較的ゆったり並べていましたが、それでも坪あたり1000冊弱として10万から15万冊ぐらいの本が当初からあったはずです。最初は、いくらかすっきりしていた店内も、数ヶ月から1年もするうちに隙間を見つけるのがむずかしいほどになりました。

当時の高原書店の仕入れは、お客様のお宅に出張買取に行くのが主要な方法でした。持込もありましたが、ビルの中なので、車が付けにくく大量に持ってきてくださる方は少なかったと思います。裏の通用口のようなところから荷物をあげるのですが、路上に車を止めて本を降ろさなければならないので、ひとりではむずかしかったのです。それで、最初は買取の基地として、支店を残したのですが、お客さんはどうしてもPOPビルに来てしまうので、そちらは1年ぐらいでやめてしまいました。

週に2,3日ほど、社長みずからハイエースに乗ってお客様宅を回りました。ぼくもよく助手席に乗ってお供をしました。市内を午前中に回り、ファミレスで食事をして、午後には近隣の市を回りました。たいていは、数件回って、ハイエースが満載になるほど買取をしてきたものです。

・社長の話を聞いたのは、主に古書出張買取の助手席でです。社長はよく、どんな本にもそれなりの価値があると言っていました。普通は売れないので、古本屋で邪険に扱われる一般書も、たくさん集めれば売れる本に変わる。屑も集めれば宝になる。つまり、売り方によって本の価値が変わるということです。

また、現在の古書店業界は売場面積が絶対的に不足していて、大量出版時代に対応していない。ごく少量の本しか置けない古書店の現状では、ほとんどの本は売場に残せないので、捨てられてしまう運命にある。売場に残せないのは、本を置いておくのにコストがかかるからである。家賃坪2万円のところに500冊置いたら、1冊当たり40円かかる。人件費などの諸経費もあるので、これでは年間1000円近いコストがかかってしまい、それより安い本を置いたら1年目で売れても、たとえ仕入れが0円であったとしても赤字になってしまう。

安い本、流通性の悪い本を置くには、コストを下げなければならない。それには規模を大きくするのが一番だ。大量出版時代に本は洪水のように流れてくる、それに対して、古書店は在庫をたくさん持つダムにならなければならない。

社長は、そんな事をいつも言っていました。実際に、他の古書店で100円均一で売っているような本が、高原書店では定価の半額でよく売れました。それでも、売れ残っていく本も多数あります。新しい商品を棚にさすためには、売れ残りを処分しなければならないのですが、社長はそれを捨てることを許さず、竹林の中に借りた倉庫に積み上げていました。

・社長は、古書業界が大量出版時代に対応していないことには批判的でしたが、一方で業界を非常に愛していました。業界を捨てるのではなく変えようとしていたのだと思います。

業界の重鎮としての反町茂雄さんの話をよくしてくれました。反町さんは戦後の古書の価値づくりをした人です。その点で尊敬していましたが、同時に企業人としては批判的でした。文化的価値の高い古典籍を、もっと高価にする方法があったのに、それをしなかったと、とても残念がっていました。

古典籍に関しては、誠心堂書店・橋口候之介さんに関してもいろいろと聞きましたが、そのころの僕にはよくわかりませんでした。また、古本屋になったら7年間はカップラーメンをすすって貧乏暮らしだが、そこまで耐えればその後は何とかなるという、某古書店主が独立する店員に言った言葉。

身近な中央線支部の若手に関する噂も聞きました。あいつを見習え、と言われた相手が、いまの支部長なので、その見識自体は正しいかどうかわかりませんが。
○社員になって

・1987年にぼくは大学を卒業して、社員になりました。最初に担当したのは、絶版文庫でした。

高原書店では、「古書店と読者の雑誌」という雑誌を1981年から発行していました。次第に仕事が忙しくなって、お客さんと会話ができなくなった店主が、お客さんと店とのの交流の場として創刊した雑誌です。その中に、絶版文庫コーナーがありました。絶版や品切れの文庫を300円、500円というような均一値段で掲載していました。なかには相場1万円というような珍しい本もあります。注文を受けて、発行日の2週間後に抽選するのです。その日までは、「古書店と読者の雑誌」は有料で売りました。

この掲載すべき文庫を選ぶのが仕事です。日々、百冊単位で入荷する文庫から、絶版でプレミアがつきそうな本を選別するするわけです。文庫には、さまざまなジャンルがありますし、古典もサブカルチャーもあるので、文庫を担当するというのは、あらゆる分野を担当すると言うことです。これは、非常に勉強になりました。

のちに、この雑誌には本に関する本や、本屋に関する本を紹介する「本の本、本屋の本」という記事や、日々のエッセイを綴った「駆け出し古書店員日記」を連載させてもらう事になります。

・暫くして、ぼくは相模原市の淵野辺にあった支店の店長を命じられました。1979年からやっている60坪ほどの店です。はっきり言って、いやでした。華やかなPOP店に較べて、淵野辺支店は、木造の倉庫を改造したような薄暗い店で、変な臭いがいつも立ちこめていました。

ぼくの性格が悪くなったのは、この頃からだと思います。島流しの気分で、ぼくは本店をあとにしました。

淵野辺店は、店の中に中途半端な仕切りがあって、いくつかの部屋に別れていました。奥の方の部屋は、お客さんがほとんど行きません。雨漏りするところもありました。

棚ごとの売り上げを計算して、平均を下回っている分野を人の行かない方へ持っていき、売れ筋の本をメインの場所に集めました。また、分野ごとの棚の量は、入荷の量で配分されていました。売れない分野は、本が減らないので、どんどん棚が増えてしまいます。それだと売れ筋の本の棚が少なくなってしまうので、売れ行きで配分することにしました。要するに、売れるものはより多く、売れないものはより少なく置くことにしたのです。

売れない本は、棚を減らされたので行き場がなくなり、店の奥に積み上げられました。そこも一杯になると、こっそりチリ紙交換のヤードに持って行きました。

そうしたら、数ヶ月で売上が1.5倍ぐらいに増えました。店のパートの人は、僕がやたら本を動かすので疑問のようでしたが、売上が伸びたので理解してくれました。

・淵野辺支店では、背のない雑誌を平台に置いて100円、200円で売った他は、だいたい定価の半額の品物ばかりでした。専門書の買取は、あまりなかったのですが、サブカルチャーものは色々ありました。特に写真集はよくはいってきて、少し古いものなら高く付けても売れました。アイドル写真集がブームで、文省堂さんが有名になったころです。

それから、同人誌の買取がありました。最初は、素人の作ったものなので売れないだろうと思って、全て100円で箱に入れておいたら、瞬く間になくなったので、500円ぐらいで売るようになりました。コミケが晴海から幕張メッセに移ったころです。しばらくは好調でしたが、ある日全然売れなくなりました。

白夜書房などの気味の悪い雑誌がたくさん出たのもそのころです。いまでは、売ってはいけないようなあやしい本やムックがたくさんありました。

・その店には、ちり紙交換の人もよく出入りしていました。雑紙として集められた中にはいっている本を持ってきてくれるのです。そういう人たちに、ブックオフの噂も聞きました。

一般書を扱う本屋を集めて、古書組合とは違う流通組織を作る計画にも誘われましたが、乗ったふりをして詳しく話しを聞くような知恵がなかったのが惜しまれます。

当時、野猿街道の中央大学付近にブックセンターいとうの店舗がありました。おそらく、最初の店ではないかと思います。出張買取の途中で、たまたま通りかかった、社長と僕は、まだ一般書を扱う古本屋が少なかったので、仲間のようにも感じました。いや、僕はそんな風に感じたのですが、社長もそうだったと思います。

いとうグループの出自は北海道ですが、札幌付近には、そのころすでに半額で一般書を売る店が複数できていたようです。従来型の古書店が取り逃がしていた、一般書というブルーオーシャンに気づく人がだんだんに出てきたわけです。古典籍や稀覯本は数が少ないので、企業化して発展する見込みはありません。これらは個人的な目利きで扱うほかありません。しかし、大量生産される一般書には企業化の可能性があるわけです。

・しばらくして、本店の人員が不足になったので、一週間のうち半分は本店に勤務、半分は支店を回るようになりました。当時の高原書店は、小田急相模原と神奈川県大和市の桜ヶ丘にも小さな支店があり、そこにはアルバイトとパートしかいないので、本の買取ができません。いったんお預かりして、僕ら社員が回ったときに査定をしていました。

担当するようになってから、小田急相模原店は、2倍ぐらいの売上になりました。それには、仕入れに力を入れたのが大きかったと思います。裏表紙に宣伝が載っている『古書店と読者の雑誌』のバックナンバーをたくさんもらってきて、チラシ代わりに近隣の住宅のポストに入れました。これは、社長から教わった手法で、手の空いた社員がたまに命じられていたことですが、このときは早出をして、店の近くのマンションを重点的に播きました。

店は駅から近かったのですが、裏通りにあって目立たなかったので、宣伝チラシはよく効きました。買取が増えただけではなく、店を訪れてくれるお客さんも多くなりました。初めて来てくれたお客さんは、「あ、ひろい」と言ってくださいました。200坪近いPOP店になれている身からすると、十分の一の小田急相模原店は決して広くないのですが、当時の古書店の常識からすると、それでも十分広かったのです。

桜ヶ丘は、どうやっても思うように売れませんでした。仕入れが悪かったのと、店舗面積が狭すぎることが原因だったと思います。

・本店での仕事はBフロア長でした。フロア長と言っても管理の仕事はたいしてありません。人員管理は店長がしますし、その日の昼交代の順番を決めるぐらいです。

ただ、ほとんどの本を半額で売っていますが、雑誌だけは値段を付けていました。当時、雑誌やサブカルチャーを扱う古本屋は、ほとんどなかったので、どんな風に値付けして良いか、ほとんど手探りでした。300円、500円と、売れたらだんだん値上げして、止まったところで一歩戻る。そんなやり方です。そして、その雑誌の値段が一応決まったところで、各号の個別の記事に注目します。

そうやって、作った雑誌の値段表は後にコンピュータ化して、最後には数千項目になりました。独立するとき、ぼくは自分で作った値段表ですから、後任に託しただけではなく、自分用にコピーして持ち出したのですが、西荻で始めた自分の店では全く役に立ちませんでした。あれは、あの場所、あの売り方、あの高原書店でだけ通用する価格表だっったのです。

それから、買取価格の査定もしました。買取はAフロアのカウンターでやっていたのですが、店長が休みだったり出かけていたりすると、買取のお客さんが来る度に呼ばれてAフロアに行くことになります。

雑誌の値段付けをして、本を棚に出して、Aフロアに呼ばれて、また雑誌の値段を付けをして、同じ方向にぐるぐる回っているとだんだん眼が回ってくるので、たまには逆回りに走ったりしました。

社長は、出張買取に行くほかは、Aフロアに置く本の値段付けをするぐらいで、あまり店にいませんでした。その値付けもだんだん僕ら従業員がするようになりました。

・朝の会議を毎週することになったのも、そのころです。ぼくは、レジの集計から棚ごとの売上を計算して、配置を変更するように提案しました。支店の経験で、売上を伸ばす方法が面白いように当たったので、有頂天になっていたのでしょう。桜ヶ丘支店に関しては採算の見込みがないので、閉店する方が良いと言って、「澄田君はまだ、経営というものを全然わかってない」と社長にたしなめられました。その意味は、独立するまでわかりませんでしたが。

○パソコンを導入からネット古書店への布石

・のちにネット販売に重心を置くようになるのを、どのくらい見通していたかはわかりません。ただ、1988年か9年ごろには、パソコンを導入して、データベースを作り始めていました。

データベースの構築を命じられたぼくは、『月刊ASCII』などの専門誌を読みまくって、機種やソフトを決めました。

パソコン本体は、PC-9801RA、ハードディスクは外付けの40メガバイトです。データベースソフトは管理工学研究所の「桐」、そのほかにエディタソフトの「MIFES」、ワープロの「一太郎」、ファイル管理ソフトは「エコロジー」、表計算は予算がなかったので廉価な「アシストカルク」を買いました。

そのパソコンを使って、社員それぞれに自分の得意分野の古書目録を作るというのが社長の命令でした。店長は文学の、ぼくは思想や科学の本の目録を作成し始めました。音羽館の広瀬さんも、そのころいて、たしか芸能の目録を作ったのではないかと思います。

「桐」は表計算のような画面で、データの型を定義せずに、いきなり内容を入れられる当時としては非常に使いやすいデータベースソフトでした。これで、縦書きの目録もきれいに印刷できました。

・高原書店の創業は1971年か2年ごろですが、最初の店舗は1974年です。町田駅から8分ほど離れた当時の市役所の前で、薬局を改造した10坪の店舗でした。

とくに修行のようなことをせずに、いきなり古本屋を始めた社長は、持ち込まれる本を何でも買い取っていたそうです。そうしたら、「日本沈没」、「人間の証明」といったベストセラーが大量に余ったそうです。古書組合の市場に持っていっても、どこでも余っているので値がつきません。

そこで、倉庫のような家賃が安くて広い店舗に本を並べれば、一冊当たりの在庫経費を抑えて、長期間棚に置くことができるようになる。社長が十坪時代に考えたことです。

ここまでは、我われ従業員も必死についてきましたが、社長は次の段階として、本当の倉庫に本を置いて目録販売しようと考えていました。田舎の倉庫なら年間1円ぐらいで本を保管できるから、安い本を何十年でも置いておけると。

その思想を、僕を含めて従業員たちはほとんど理解できませんでした。僕ら店員は売場を愛していて、パソコンに本のデータを打ち込みましたが、それは他の本屋と同じように、少しでも高く売れる本を探す方向に向かっていったのです。

・高原社長は、古書業界の人脈とは関係なく創業しましたが、古書組合の仕事には積極的にかかわりました。私がいた8年間に2度も組合の理事をしています。機関紙部の仕事をして、中央線古書マップも作成しました。

東京古書組合の最小単位は班ですが、この班長もよく引き受けていました。班長が集まる会議は高円寺でしたが、遠いので僕が代理でよく出席しました。

1991年に、古書組合が主催する古書市場の経営員にしてもらいました。経営員というのは、市場の実務をする若手たちです。古書の市場というのは、古本屋が集まって自分の不得意な本を出品して、欲しい本を買って帰る交換会です。本は重いのでこれを運んだり、封筒に入札価格を書いた紙を入れるのですが、これを開封して落札者を決定したりするのが、経営員です。

そのときの先輩が、今日の会場を主催してくださっている@ワンダーの鈴木さんでした。そこのころは「まんが市文化堂」さんというおなまえで、早稲田でお店をしていらっしゃいました。

業界や市場のことを何も知らずに、いきなり市場の係員になったので、最初はとてもとまどいました。それに、従来の古書店と、やり方が全然違う高原書店は、当時の古書組合ではかなりアウェーな感じでした。本は、一冊一冊価値を見極めて大切に値段を付けるべきもので、どれでも半額なんて冒涜だ、と、まーオーバーに言えばそんな感じです。しかも、その半額の本は、他の店では100円ぐらいで販売しているか、売れないから捨てているものなのです。今の堅い古書店が、新古書店に対して古本屋じゃないと言うのと同じ感覚です。

けれども、そういうやり方に、古書業界の将来を占う「実験」としての価値を認めてくれる同業者もいました。実際に、僕が経営員をした中央市会では、まんがや文庫をはじめとする一般書が、毎週何万冊と取引されていたのです。

ぼくは高原書店の立場を説明したのですが、逆にみんなの影響も強く受けました。業界のいろいろなことを知るにつけ、高原書店でやしなった技術で、独立してもやっていけると考えるようになりました。なにしろ、淵野辺の店でも、小田急相模原の店でも、うまくやりましたし、桜ヶ丘、相武台、高円寺などの店では開店準備からかかわって、店の始め方も慣れていたのです。

翌年1992年の正月、ぼくは社長に、独立したいという希望を切り出しました。

もちろん、社長は怒りました。ぼく自身は、そのとき最も社長の考えを理解している従業員だと思っていましたから、なんでこうなるのかという葛藤を抱えながらも、自分の店をやってみたいという欲望を抑えられませんでした。社長は、怒りながらもぼくが古書組合にはいるのを理事として承認してくれました。

中央市の経営員仲間は応援してくれました。大泉のポラン書房さんはお店を手伝わせてくれてバイト代をくれましたし、畸人堂書店さんは在庫をわけてをくれました。最初の仕入れは、まだ正式に組合にはいっていなかったので、@ワンダーさんの名義で入札させていただきました。そして、ワンダーさんには車ももらったのです。ありがとうございます。ただ、その車は車検が切れていて、10万円ほどかけて車検をとりましたが、3ヶ月ぐらいで動かなくなり、廃車になりました。

1992年の春に西荻窪で「よみた屋」が誕生してからの話は、次の機会に譲って、今日の物語はここまでです。

○エピローグ

そののち、高原書店は横浜ドリームランド店、新宿古書センターなど、大型の支店を展開すると同時に、故郷である徳島に1000坪近い倉庫を持つようになります。蔵書100万冊を超えたころ、ブックオフ町田店が出店して、その影響でPOPビル本店の売り上げが減少しました。

社長は「大量出版時代の古本屋として、旧来の専門的古書と、定価の半額で売る大量出版物を組み合わせて販売するという方法をかんがえましたが、新しい動きとして、その時だけ売れればいいという商法が出現」することを見落としていたと、著書『古本屋30年』で述べています。

2001年本店を現在の少し奥まった所にあるビルに移転して、完全にインターネット販売に重点を置くようになります。そして、高原書店の創業者、高原坦は2005年に糖尿病のため他界しました。まだ61歳という若さでの急逝でした。

高原書店の40年のうち、初代社長高原坦の時代だけでも30年。そのうちわたしがいたのはわずか8年です。私自身は、高原書店のDNAを受け継いだ一人だと感じていますが、高原坦の思想と、その具現である高原書店の全体像をどこまでつかめているかはわかりません。特に、ネット古書店に軸足を移してからの高原書店については何も知りません。

高原坦は『古本屋30年』のなかで、大型店の次の目標はダブついている本を賃料の安い倉庫に保管し、時間をかけて販売することで、それは、「洪水の時の水を蓄えて、渇水の時に利用することに似ています」と語っています。

いま社長が生きていて、わたしたちの商売をご覧になったら、どんな風に評価するでしょうか。現時点でわたしが考えることは、古本屋だけがダムになって在庫を抱えるのには限界があるということです。100万冊売れたベストセラーを、100万冊そのまま次の世代に残す必要はありません。稀少な本は大切にされ、余った本は減らされても仕方ないのではないでしょうか。

よみた屋では売れ行きの悪い本はどんどん100円均一にして売ってしまっています。在庫は古本屋と古本を買ってくださるお客様の共同作業で持てばいいのでではないでしょうか。余っている本は見向きもされませんが、珍しい本は必ず誰かが買ってくれます。

古本屋だけがコストを支払って、次の世代に本を残すのではなく、古本屋を利用する蔵書家の本棚もまた、人口のダムとは違うかもしれませんが、自然の貯水池になれるのではないかと思います。

というわけで、みなさんどうか、どんどん本を買って、たくさん蔵書を持ってください、というお願いで今日の話を終わりたいと思います。