郊外の多くの古書店は、雑本の山の中から貴重書を探し出す「砂金取り」のような仕事をしている
土曜日に息子一号が仕分けしている本の山を見た同業者が、「これにお金を払って買ってきたの?」と言ったそうだ。5000冊の梱包には二人で一日中かかったし、仕分けもやはり二人で一日中かかる。運送屋さんのトラックも使った。売上は十数万円だから、経費とお客さんへの支払を引けば利益はわずかだが、経費というのは大半が自分たちの給料だから、その点も含めて考えればやって損な仕事ではない。
郊外の多くの古書店は、雑本の山の中から貴重書を探し出す「砂金取り」のような仕事をしている。もちろん金だけではなく、鉄や銅も稀少性では劣っても読んだときの実用性ではその本ごとに優れた特徴を持っている。われわれ「普通の古書店」はそういうもので普段商売しているが、金をを狙う専門書店(何度も言うが専門書を扱う書店ではなく、特定の分野の貴重書を扱う書店のこと)も、我われ一般古書店がなくなればそういう金の本に出会うこともできなくなる。
いや、それは言いすぎで、たいていの稀少書は「あるべき所」にありそういう場所は専門古書店の管轄だ。だが、普通の場所で普通の本に混じっている貴重書は、誰かが砂金取りの笊を振るわなければ永遠に失われてしまう。
とは言え、我われが金銀のようなコレクション対象ではなく、鉄やアルミのような実用的な本で商売しているのは事実で、本の本質は読まれるところにあり、読むことさえできれば造本の貧しさや傷みは関係ないのだと見得を切ってみたい。(実際は、本は見た目が9割で、かっこいい本ほどよく売れます)。
今日は本棚20台というので1万冊クラスかと見に行った出張買取、しかし、棚には好きが多く全部でも数千冊。子ども文庫を開いていたそうで、痛みが激しくて、買えるものはごく少数であった。出版社にお勤めだった親御さんの蔵書だが、何でも大学関係者がすでに引き取ったあととのことだった。残りは捨ててしまわれるそうなので、400冊ほどを持って帰る。