5人揃って写真をパチリ
最近の大学には何とか表現学部とか、国際文化学科とか、かつては聞かなかったような細かな分類の学部学科ができている。一方ではリベラルアーツ(一般教養)としか言いようがない総合的な学部学科もあるようだ。細かな分類の学科名の方も、研究対象を学科名にして学際的な研究をするという趣旨のようだが、もちろん教授陣はそれぞれ専攻を持って学会に属する研究者のはずだ。結局はリベラルアーツと同じような感じだが、学生の感じ方はずいぶんと違うのはないか。
例えば、古代について研究するするから「古代学」という学科をつくる。そこでは、ある出土品を前にして考古学者が出土品の形式から紀元前6世紀だと判断し、歴史学者が刻まれた銘の内容から紀元前3世紀だと判断したとしよう。さて、二人の学者の議論はどんなものになるか。寄って立つ論理が違うので、二人は議論のしようがない。ただ、6世紀だ3世紀だという結論だけを言い合う水掛け論になってしまう。ただし、二つの結論を矛盾なく結びつける別の論理はないかと探したり、自分の論理の欠陥を疑う切っ掛けにしたりすることはできる。例えば、紀元前6世紀の器物に紀元前3世紀になってから銘を刻んだのではないかというように。そこで、そのようなことは可能かと、器物の生産にかかわる工学者の意見を聞くことになるかもしれない。
学際的な研究とはそういうものだろう。
学問にはそれぞれ研究方法があり、それを身につけるのには長期間の訓練が必要だ。そのための施設が大学である。大学では、ある程度確立された方法論に基づいて、その分野の研究者が誰でも認める議論の仕方を学ぶことが求められている。考古学とか、歴史学とかいうのは、研究対象であるより研究方法の分類なのである。
学科や専攻をあらかじめ決めずに、大学生活の初期には広く学んで、学年が進んでから専門分野を決めればいいというのが、リベラルアーツの考え方だろう。しかし、研究対象の名前がついている学科は、専門分野が決まっていて「学際的に」これを学ぼうということのようだ。これでは、きちんとした研究方法が身につかないのではないか。
それどころか、「学際的研究」を一人でやれると考える学生も出てくるだろう。つまり、考古学と歴史学の成果のうち、自分の仮説に都合のいい部分だけをとってきて議論を組み立てるようなことを学際的研究と勘違いすることである。空手と柔道の両方に通じて、双方の試合にでる事はできるが、両方を同時にやることはできない。一本背負いをしながら回し蹴りをすればデタラメである。
本日は朝ご飯を食べ終わって立ち上がろうとしたときに、腰にビリリと電流が走り、しばしそのままファンヒーターを抱えるようにして静止していた。危うくぎっくり腰になるところだったが、危うい所でとどまった。しかし、きょうは数冊以上の本は持たないで過ごす。昼交代の直前、MT代理の他に、新人のTN、MS、KH、そしてもうすぐ退職の教育係SMが揃う。写真をパチリ。南歩は神田で出品物の仕分け。佐藤店長は荷物を下ろしたら、車を戻して店へ。新人が多いので、レジ内は混乱。