ちょっと気になったのだが、二度と見つけられない本
ひと月ほど前に日本人の普通についてリサーチした本を仕入れた。どこで仕入れたかは憶えていない。よくある自己啓発書かビジネス書の類に混じっていたと思う。取り立てて貴重な本ではない。
内容は、あなたが思っている「普通」は本当に現代日本の普通と言えるか、といったものだ。たとえば、Aさん35歳は独身だが、時文のことを「普通」と思っている。だが、現代日本の35歳から40歳男性で一度も結婚したことのない人は30%程度である。Aさんは特定の恋人がいないが、周囲の独身男性のなかでは恋人がいない人も多いので、自分は普通だと思っている。だが、それは狭い交友範囲からそう思っているだけで、じつは……。というようなものだった。
本に値段をつけるときは、それがどんな本なのかを知らなければならないから、ページをぱらぱらとめくってみる。内容を読むわけではない。「どんな本か」を知ればいいから、書かれている内容よりも、出版形式や装幀や文体などに注目する。要するに、どんなテーマがどんな角度から書かれていて、社会の中でどんな意味を持つ本なのか、ということが重要なのだ。
それでも、文体を見るだけにでも、内容を少しは読んでみないと分からないから、このときも数ページは読んだと思う。そして、正確には記憶がないが、たぶん定価の3分の1か半分程度の売価をつけて机の上に置いた。
よみた屋ではぼくが売価をつけて机の上に置いた本は、その日のうちにアルバイト店員が整理台の上に移つす。その後、データベースに登録したり、販売サイトに出したりしてくれるのだが、これは仕事の溜まりぐあいによって、その日だったり2週間後だったりする。
意外に「普通」と思っていることや、マスコミではに常識とされていることが、よく調べてみると少しも「普通」ではないことがある。むしろ「異常」であるがゆえに目立つので「よくあること」と思われているのだ。
そんなことがぼくも気になっていたので、その日値段をつけたあの本が、後から妙に気になりだした。整理台の上は、たくさんの本が積まれていて、置き場所で仕事の順序を区別しているので、社長といえども勝手に触るのははばかられる。下手に動かすとデータベースに2重登録したり、取り置きの本を別の人に売ってしまったりして、面倒なことにならないともかぎらない。
だがら、その本を並べそうな棚を監視していたのだが、いつまでたっても現れない。プライベートな興味だから、黙って一人で探していたのだが、ガマンしきれなくなって、数人の店員にこんな本はなかったかと聞いてみた。だが、題名も憶えていないし、著者も出版社もわかからない。「こんな内容の本です」という困った捜し物だ。誰の記憶にもなかったし、見つけることもできなかった。
値段をつけるときは、そういう眼で見ているから、ほとんど機械的に鉛筆で数字を書いて、いつものように机の上に置いてしまう。自分の読みたい本を読んでいるときとはまったく違うので、後になってから「あれ、読みたかったな」と思うのだ。
本屋で何かおもしろそうな本はないかと、物色しているときと似ているのだが、違うのは、本屋では棚に戻してしまっても、後から気になればまたその棚に取りに行けばよいのだけれど、ぼくが値段をつけた本は、それまでのものとはまったく違ったものになってしまうことだ。
それまでは、それはただの「本」だが、値段をつけた瞬間から、それは「商品」に変わってしまうのだ。
商品になってしまえば、ぼくの手を離れたも同然だ。そんなに売れそうな本には見えなかったが、気が付かないうちにお客さんの手に渡っていったのだろう。
長年本屋をやっていると、そういう、ちょっと気になったのだが二度と見つけられない、題名も著者も分からない本がいくつかある。(どちらかが分かれば、必ず見つけられる)。たとえば、日本史の法制度は室町幕府崩壊を境にして二分できると主張している本とか、仏教の異端思想(外道)の歴史を記述した本とか、パラメディカルのための解剖学の教科書とかである。ぼくにとっては「つきあわなかった女の子」のようなポジションにある本たちだ。
読んでしまった本より、読まなかった本が忘れられないのはどうしてだろう。