友人とは共に悪を為す者のいい

運送屋さんに集荷を頼んだ買取が24箱とどく。ちょうどささま書店のIさんが来ていたのだが、ばたばたしていてあまりお話ができなかった。ごめんなさい。るぶろりべろさんもいらして、空きビル即売会の書類をいただいた。
今日は、いい者は何故モテないか。悪者はモテるのか。と言う話をしようかと思ったが、そんなことは誰かがすでに考えていそうなので、やめた。きっと善は誰とでもなし得るが、悪を為すときには傍らの者を選ぶ必要があるというようなことなのだろう。
友人とは共に悪を為す者のこと、と言ったのは誰だったか。ならば、悪友の方が、ボランティア仲間よりより親しいということか。しかり。
プラトンの『国家』のなかで、グラウコンは不正の極致は正しい人間だと思われることだ、と言っている。なぜなら、悪事が発覚して捕まるような奴はヘマな奴で、船長が船を操って過たないような真の悪人ではないからだ。逆に、正義の人とは「善き人と思われることではなく、善き人であることを望む」ような人で、栄誉を求めて正しさをひけらかしたり、味方を作って利益を分かつようなことをしないから、生涯不正の人という評判に耐えなければならない。
悪人の友になれば、分け前がもらえるが、敵になればすべてを奪われる。善人の友になっても、ただ「善」が与えられるだけである。(だから善人の政治家は役に立たない)。
チョイ悪がモテる理由と、悪友が親友である理由は、ぜんぜん違うのかも。