「本」という文化は新に書き著される文章より、過去に書かれたものの蓄積にこそ価値がある

父の日に息子1号からKindleVoyageを贈られた。以来、夜の時間はほとんどこれにとられている。読んでいる内容は青空文庫だが、Voyageは快適だ。数年前に買ったKindleはバックライトのムラが気になって使わなくなっていたが、最新版は画面が非常にきれいになっている。幸田露伴、泉鏡花、芥川龍之介、中島敦、わけても国枝史郎は伝奇文庫以外に安く買える全集がないので青空文庫が頼りだ。
ウィンドウズ用のアプリケーションもできたが、パソコンで読むなら他にも快適なアプリがある(えあ草紙など)が、ベッドの中で読むにはやはり専用の端末がいい。電子書籍は、さまざまな端末を選択できるのがよいところだが、そのかわり、結局のところ何らかの端末を必要とするところが、弱点でもある。
音楽はCDからダウンロードに移行したと思ったら、もうそれも終わって定額聴き放題の時代だ。本も同じ経過をたどるだろうという人もいる。本は時間芸術である音楽とは違い、ストリーミングがふさわしくないから、定額読み放題はむずかしいと直感的に考えていた。しかし、よく考えてみると、新作に関しては実は定額読み放題さ-ビスというのは昔からあった。いわゆる「雑誌」がそれだ。誰のどんな作品ということもなく、われわれは雑誌を買うし、買った雑誌の全部を読み切ることは少ない。
ある程度の関連性をもった著者の新作が次々に配信されてくることに対する対価を要求するようなサービスは既にあるが、これらは「電子本」あるいは「電子雑誌」とは呼ばれていない。ウエッブ上に開かれていて、シームレスに他のコンテンツとつながっているからだろう。「本」というからには表紙がついていてその内側は一定の世界観で統一されているはすだ。その本の定義にそぐわないからだろう。現状のサービスは、表紙のない「新聞」のウェッブ版に近いものだ。
今あるようなものとは少し違う、読者や読み方のターゲットを絞った、「雑誌」的なサービスが出てくることが今後予想される。
だが、新刊ではない、今までにでた本の蓄積はどうなるだろうか? 本来、「本」という文化の本質は、新に書き著される文章より、過去に書かれたものの蓄積にこそ価値がある。
これらは無料になるよりほかないのではないだろうか。現在我われがプロバイダーに支払っている料金のように、ネットワークを利用するコストの内に含まれるのがのぞましい。あるいは、1回1円のような非常な低額(課金コストが安くなれば可能)ということも考えられる。ほとんど意識しないうちに、そのコンテンツに投資しているというような。
過去のコンテンツは、たとえれば道のようなものだ。誰かが苦労して切り開いた道でも、あとから通る人は「天下の往来」として自由に通れる。通ることで、その道は踏み固められて維持される。みんなで維持しているものだから、誰かが所有することはできない。誰も通らなければ、その道はまた失われてしまう。
現在の新聞ニュースのサービスでは、記事をすぐに読むのは無料だが、一定期間を過ぎると消されて、これにアクセスするためにはお金が必要というような仕組みになっていることがある。これは、ネットしか情報がないとしたらおかしな話で、実際にはみんなが紙の新聞を読んでいるという前提で初めて成り立つことだ。
本にしろ雑誌にしろ新聞にしろ、その料金体系はメディアを流通させるのに必要なコストに基づいて計算されている。現状の電子コンテンツも、それとの競合で価格設定されているから非常に高額だが、コンテンツそのものの価格はもっと安くてもいいはずだ。じつは、情報コンテンツのようないくらでも増やせるものはコストから価格を計算できないので、妥当な価額がいくらなのかを計算するのはむずかしいのだが、現状の「印税一割」を元に考えれば、電子本の価格は紙本の価格の2割程度になってもおかしくない。
そうすると、雑誌などの価格はとても安くなってしまい課金にかかるコストとの戦いになる。つまり、「少年ジャンプ」電子版は毎週50円でいいはずだが、50円を受け取るためのトランザクションに30円かかるので採算がとれないというような話しだ。
今後、この問題が解決されれば、情報コンテンツは一気に値下がりすることが考えられる。例えばポイントカードが統一されて、この融通で毎々の課金の帳尻を合わせるようになる、というような方法が有望なのではないか。
さて、はなしが将来の夢のようになってしまった。
最近は店長(女房殿)が、本を棚に並べるようになったので、店の様子が一変した。お客様の表情も変わった。僕の店作りだと、どうしても「この本は珍しいから売りたくない」というような気分が棚に現れてしまうのだが、クールな店長が棚づくりをすると、そのようなこだわりがなくなって、非常に見やすい棚になる。
先月の下旬には、IAが新スタッフとしてよみた屋に加わったのが、最近の大きな変化だ。この一週間は息子一号が明治古典会の七夕大入札会のために店を開けていたので、いそがしかった。先週は宅配買取を100箱送ってきてくださったお客様があった。内容は、ほとんど外の100円均一にするべきものだが、おかげで今週は毎日150冊ほど均一が売れた。今日も、宅配買取がたくさんあり、10箱手つかずなのだが、出張買取のため川崎まで行った。本日は半分下見として、縛り10本程度を買ってきただけだが、書庫の5000冊を処分していただくお約束をしてきた。
明日はまた、「日本の古本屋」の会議である。目下、僕は書誌カタログの担当として、将来の古書カタログのために沈思黙考している。