普遍論争

2月27日
寝坊したので、集合まで時間がない。毎朝飲んでいる女房殿手製の野菜ジュースだけを口に入れて、あわてて顔を洗う。焦ってひげを剃ったので少し血が出た。予定より15分遅れて家を出る。電車がひどく混んでいて、中野駅では降りますと言いながら降りられない人がいた。周囲の人は道を開けようとしていたが、本人の意思がたらず、新たな乗客が乗り始めたところであきらめてしまった。新宿駅で大方が入れ替わり座席確保。八木雄二著『天使はなぜ堕落するのか』を開くが、頭に入らない。
このところ、書誌情報とは何かを考えている。本は複製物だから、同じ本が何冊もある。『天使はなぜ堕落するのか』は、東京の紀伊國屋で買っても神戸のジュンク堂で買っても内容に違いはない。3年前に買った本と、今年買った本はもしかしたら別の次期に別の場所で印刷されたかもしれないが、やはり「同じ」本だ。新刊書店で平積みになっている本の、一番上と二番目を入れ替えても誰にもわからない。
しかし、私の手もとにある本に私が書き込みをすれば、それは私だけの本になるだろう。別の人はカバーを捨ててしまうかもしれない。「同じ」本でも、物体としては別だから初めから区別できるものだったのだ。
たぶん世界中に何万と同じ『天使はなぜ堕落するのか』があるだろう。それら全部に共通する属性が書誌情報だ。題名や著者、出版社、初版年などのほか、本の形や大きさページ数、デザインや目次など本の特徴をあげればきりがない。しかし、我われ本屋にとってまず必要なのは本を特定し他の本と区別できる最低限の情報だ。
それに対して、この本には書き込みがあるとか、カバーが付いているとか、新品のようにまっさらだとかいうことは個物に付く属性だから書誌情報ではない。普通の古本屋はたいてい同じ本(同一書誌)を何冊も在庫していないから、書誌情報と個体に付く情報を区別していない。古本屋にとっては、一冊一冊がすべて違う本なのだというのが、正直な感覚だ。
古本屋にとってそうでも、お客さんから見れば同じ内容のどの本でも良いから欲しいのであって、個体差にこだわるのは特別な場合だけだろう。だからやはり、八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』を星野ケイ『堕落天使』から区別するのが重要だ。
極めてシンプルなことに思えるが、実際に書誌のカタログを作っていこうとするといろいろな困難がある。たとえば、微妙な異本などである。今は絶版になっている岩波書店の『ちびくろさんぼ』は1974年以降の版と以前の版で、すこし文言を変えてある。これは「同じ本」と言っていいのか? それほど大きな違いでなくても、増刷の際に誤植を修正することはよくある。新刊で出たあと文学賞を取って、帯を買えた場合などは? 付属品は個体によって違うから書誌情報から取り除いて考える方が良いのだが、途中で帯が変わった初版本の元帯は珍しいから、本体より帯の方が遥かに高価だったりする。それなのに「同一書誌です」ということでは困るという古本屋さんの気持ちもよくわかる。
あるいは、上下セットの本やひとつの箱の中で分冊になっている本はどうしたらいいだろうか。上下の本はカタマリとしてひとつの商品と考えるのが古本屋の習慣だが、バラしか在庫がなければバラで売ることもある。だから、それぞれのカタログとセットのカタログの両方が必要になる。上下のように簡単ならいいが、本巻20冊続巻20冊別巻5冊補巻7冊+追補篇みたいな本は何があれば揃いと言えるかわかりにくい。予告だけされていて10年以上も未刊などという事もざらだ。あらゆる組み合わせでカタログを作っていたのでは膨大になってしまう。
区別が付く最低限の情報があればいいと書いたが、売るためには内容の解説とか、目次とか、書評とか、さまざまな補足が欲しくなる。書誌を特定できれば、あとはその書誌に対して出版社や図書館の情報を結びつけたり、そういう販促のデータを付け加えたりすればいいのだが、どこまでを「書誌」としてどこから「販促」とするかは、線引きが難しい。
ところで、電車の中で広げた『天使はなぜ堕落するのか』は300ページあたりに中世哲学の核心的な思考方法が解説されているのだが、これは混雑した電車のなかで理解できるほど我われと親しくない。
「世界観におけるトマスの時代とオッカム以降の時代の根本的な変化は、相当柔軟な理解を必要とする。一方の立場に立つなら、他方の立場は、全く理解しがたいものに見える。(中略)しかし、まさにこのような課題こそ、過去の哲学が研究に値する理由なのである」
理解できん! と苦しんだ直後のページにまさにこのように書いてあるではないか。中世哲学で有名なのは「実在論」と「唯名論」の対立だ。「普遍」は実在するかという問題である。ソクラテスやプラトンのような個々の人物は見たり触ったりできるので実在するが、ソクラテスやプラトンを含む「人間」は触れることができない。果たして「人間」は実在するのか、それとも「名前だけ」があるのか。
普通、現代人は個々の人物がまず実在して、それらをまとめて分類する概念として人間とか哺乳類とかがあると考えている。しかし中世の人たちは、「人間」のような普遍がまずあり、そこから個々の人物が生じると考えた。(このまとめであっているか自信なし)。古代から中世の伝統的哲学では知的に捉えられる存在が実在なのであって、感覚に訴えるものこそ真の実在と考えるのはオッカム以来の新しいことらしい。なんせ、中世には「概念」という概念もなかったのだ。
古本屋は手元にある個別の在庫から出発して書誌にたどり着こうとするので、何が同じで何が同じでないかあやふやになりがちだ。これは、個物から出発する唯名論的な現代人の考え方に近い。しかし、出版社から見たら書誌は自明の事だろう。自分たちが名前を付けた本を同じものとして売るのだから。出版社の立場は普遍は実在するという立場に近い。
書誌情報と個体情報(在庫情報)の関係をすっきり考えるためには中世の普遍論争を学ぶにしくはないと読み始めた『天使はなぜ堕落するのか』だが、なかなかかみ砕くには骨が折れそうである。
ついでに考えれば、ソクラテスやプラトンだって実際には過去の人物だから見たり触れたりできるわけではない。いや、同時代の人であっても、生まれてから死ぬまで観察し続けられるわけではないので、その同一性や個体性は保証されていないのだ。愛や悪はどうだろう? そういう抽象的なものが「存在」するかという疑問には意味があるだろうか。もうちょっと具体的に痛みとか怒りとかは自分のなら感じるのでたぶん存在しそうだが、他人の痛みや怒りは「ある」のだろうか? おそらく、普遍論争で問われている「普遍は存在するか」の「存在」は、そういう疑問の「存在」とはかけ離れているのだ。私はまだ中世哲学の入り口にも立てていない。
などと一瞬の白日夢の内に電車がお茶の水に着いたので、古書会館まで走る。「日本の古本屋」リニューアルのためのシステム会社との打ち合わせである。
朝飯を抜いたので、出された弁当がうまい。海老チリ、青椒肉絲など。
午後はやはり「日本の古本屋」リニューアルのためのヒアリング。数人の古書店主に来ていただいて、今後ECサイトとして『日本の古本屋」はどうあるべきかご意見を聞かせていただいた。
8時ごろ帰店。本日が最終勤務日となるアルバイト君に簡単なねぎらいの言葉をかけて帰宅。夕飯は豚肉のオリーブ漬けなど。11時に就寝予定だったが、その直前に息子一号が帰宅。タイミングを逸し、買っておいた高橋悠治のCDを開封して1時まで焼酎を飲んでしまった。
2月28日
本日は、当店での「日本の古本屋」利用実態を調査するためにシステム会社の担当による訪問を受ける。「日本の古本屋」は単なる販売サイトではなく、仕入や売価設定、販売方法の決定などにも欠かせない。もはや当店にとってはインフラである。したがって、「日本の古本屋」をいかに駆使しているか、作業の全般にわたってお見せした。30年の経験によるノウハウが詰まった作業工程だ。これを元に、さらに使いよく頼りになる「日本の古本屋」に生まれ変わるよう期待する。
しかし、「個人の人が時間をかけてブラッシュアップしたシステムを再現するのはむずかしい」そうだ。たしかに、このシステムができるまでには多大な時間がかかっている。沼の中をもがくようにして作ってきた。だが、できあがった上澄みはきれいに澄んで…はいないか。
月末なので、いろいろな支払いを辛くも済ませた佐藤店長と竹爐山房で、いつものAランチより少し贅沢なBランチと紹興酒を少しいただく。店に戻って、届いていたコンピュータを開封。設置しようと机の下を片付けたら、古いコンピュータがノートも含めて3台出てきた。壊れやすいものである。
夜、北海道に下宿している息子二号が半年ぶりに帰省。今私が使っている机は、彼のベッドの隣にあるので、しばらくは書斎のない生活になる。