新書を読むシリーズ 『「まだ結婚しないの?」に応える理論武装』 伊田広行 光文社新書

新書を読むシリーズ 『「まだ結婚しないの?」に応える理論武装』 伊田広行 光文社新書
私自身は結婚しているので、このような本は本来必要がないのだが、身近な人につい結婚の予定を聞いてしまうことがある。そういう「内なる敵」に対するための武器が手に入るかもしれないと思って本書を手に取った。
結論から言えば、ほとんど役に立たない。最近の男女問題を親フェミニズム側から扱った本としては、とびぬけてくだらない、時代錯誤の本である。


まず、「まだ結婚しないの?」と質問すると想定されている相手が新憲法を理解していない「封建主義者」のような人である。こんな頭の固い人は現代ではいないし、いたとしても会話するに値しないから、理論武装などする意味もない。普通の社会生活を営んでいる人は、50年前から思考方法を変えられないような輩は、武装なしで素手でたおせるはずだ。
「自立などと言わず、女性は女役割を従順に遂行すればいいのだ」などという結婚観を堂々と発言する人が、どこにいるのだろうか。
それに、著者は婚姻と結婚の違いを全くわかっていない。結婚は社会的に認められたカップルで、子作りや相続の単位となる。子供を作り育てる他、先祖の財産を受け継ぎ、子孫に与えるための社会的地位を明確にする。結婚する二人だけではなく、その家族同士が姻戚関係で結ばれ新しい家族が誕生するのだ。
戦後新憲法ができて、婚姻は両性の合意にのみ基づくとされた。戦後の法律では、カップルの婚姻だけが問題とされ、もっと社会的で包括的な出来事である「結婚」には踏み込んでいない。しかし、社会は歴史的に連続しているものだから、戦前の結婚に関する法律によって規定されていた「家制度」のなごりが、現代に生きるわれわれの生活や心のうちに残っている。たとえば、結婚式は当事者だけではなく「両家」でするものだし、夫の母親を義母(ハハ)と呼ぶことも普通に行われている。
ならば、「結婚」とは婚姻届を出した「法律婚」のカップルをさして言うことではなくて、なによりも双方の両親に承認されて、孫を作り育てる単位として認められ、更にそのことを世間に対して公表していることであろう婚姻届を出していない、いわゆる事実婚であっても、このような用件を満たしていれば、世間は「結婚している夫婦」と呼ぶはずである。
したがって、世間が言う「まだ結婚しないの?」は入籍のことを指しているのではなく、新たな家族を早く作れ、という強迫である。
一方、著者は事実婚を推奨しながら、カップル文化を批判している。「法律婚は差別の温床だから、あえて婚姻届を出さない」という戸籍反対論と、人間がツガイになることでお互いの自我を溶け合わせることへの批判は、全く別のことだ。著者の倫理的立場は、どこにあるか全く不明確だ。事実婚であっても、お互いに自立していないカップルはたくさんある。著者が心配するドメスティック・バイオレンスなども、事実婚だから免れるということにはならない。
そもそも、DVが心配だから結婚しないなどというのは、理屈にもならない。負けるのが心配だから試合に出ない、というようなもので、著者が本気でこれを主張するのなら、世の中の一部に結婚しない人がいてもいいじゃないか、という理論武装ではなく、一般に日本の社会から結婚というものを排除しよう「誰一人結婚してはならない」という理論にならなければおかしい。
また、結婚すればそれで幸福というわけではない、というような理屈も当たり前のことで、「将来の夢はお嫁さん」と言っている5歳の少女を困らせることはできるかもしれないが、大の大人(理論武装しようとする年頃の男女)が、そんな程度の議論で満足できると思うなら、そのほうがおかしい。
たとえば仕事があることはある種の幸せへの基盤であるが、仕事があれば必ず幸せとは限らない。結婚することによって得られるかもしれない幸せは、それとは別種のものだが、幸せへの基盤であるという点では似ている。結婚していなければ、結婚によって得られる幸せは得られない。
それに、二言目には出てくる「自立」「個人」も、固定的なものではない。人間は社会から孤立したものではなく、お互いに支えあって生きている。他人から全く自立した個人など、モデルとしては考えられても、現実には存在し得ない。
ただし、著者の言う「自立」は単純に経済力を持つことのことかもしれない。収入という面ではいまだ女性が差別されていることは間違いない。しかし、現代においてはより自立の程度が低いのは男性である。経済力の点でも、雇用の流動化によって常に不安定な状態に置かれるようになった多くの男性は、他律的に会社に働かされるという面が強くなっている。経済以外でも、心理的な面、生活上の面で他の人(多くは女性)に頼らなければ生きていけなくなっているのは男性の方である。
制度に守ってもらわなければ維持できない関係など、所詮はその程度のもの、と著者は断じるが、守ってもらったって別にいいじゃないか。学校制度がなくても、全員が勉強をしただろうか。一時的に分かれたいなと思っても、周囲の力で押しとどめられて、後に別れなくってよかったと思うカップルと、婚姻届のせいで別れられなくて苦しんでいるカップルとどちらが多いかは一概に決められない。
夫婦が一緒に暮らし生計を一つにする以上、多少は相手に合わせて我慢することもあるだろう。自分の判断と相手の希望が一致せずに妥協を迫られることも少なくない。これは近代社会がモデルとする合理的経済人にとっては、純粋でない行動を迫られることになるが、普通の人間にとっては当たり前のこととして、受け入れられるのではないか。妥協は必ずしも悪いことではないだろう。他人に合わせてみるのも、自分を広げる契機になる。
私は、20歳のときから今の妻と一緒にくらしている。26歳のときに最初の子供ができた。それから2年して、入籍した。未婚で子供ができたわけだが、出生届を別にすればひどい差別を受けた記憶はない。それでも、周囲の多くの人から「自分は気にしないが、このままでは差別を受ける」と言われた。その声に負けて、戸籍制度に屈服したわけだ。いわば「転向者」だから、この問題に関する見方は少し厳しいかもしれない。