グリーンマイル

朝一で、ヨドバシカメラに行って、プリンタのトナーとスーツケースを買う。A店長代理を連れて、神田へ。サブカルチャー本などを仕分け。昼飯は「由丸ラーメン」、替え玉一個。博多ラーメンだが、全く臭みがない。博多天神以上にすっきりした味。人によっては、迫力が足らないと思うかもしれない。
昼食後にディスクユニオンをパトロール。ショルティの指輪が2セットあって、片方は18000円。ちょっと逡巡するも、ミチョランマの高さを心の中で測って、棚に戻す。
さらにオーディオユニオンでは、クレルKAV-400xiの中古を見つける。三十数万円ほどの値札。定価の3割引ていどである。新品なら2割引だそうだから、あまり変わらない。本当はいくらになるのかと、聞きかけたが、買ってしまいそうなので、答えを聞かずに逃げ去る。
7時帰宅。夕食は鮭のムニエル。道灌あらばしり。
子供と一緒にTV放送のグリーンマイルを観る。グリーンマイルとは電気椅子への通路。日本風に言えば十三階段か。
日本でも数十年前までは、死刑執行の何日か前に本人に告知して、家族との最後の面会も許し、あるいは死刑囚同士でお別れ会などをしていたらしい。心安らかに死刑を受け入れさせるのが、刑務官の仕事だったわけだ。それが何時からか、本人には当日の朝、家族には執行後ということになった。
死刑はまさに死刑そのものが刑なのであって、執行前の拘置は刑ではないのだ。とか、刑罰は他の人への見せしめ(社会防衛的)であるよりも、本人の更生をめざす(個別教育的)べきだから、死刑も「命を持って償う」という気持ちを本人が持つことが重要だ。とかいうような考えが、根底にあった。近年では、応報刑というような考えが強くなっていると思う。
この映画はまた、生き物として死を運命付けられている我われは、誰でも常にグリーンマイルの途上にあるということを示してもいる。
我われはみんな「自分もいつか死ぬ」ということを知っている。しかし、死への恐怖は、いつでも非常に強いというわけではない。してみると、死そのものではなく、自由が奪われたまま死に至ることが、恐怖なのか。いや、拘置所がいっぱいだから釈放しますけど、法務大臣がサインしたら、すぐ執行しますよ。などと言われて、社会に放たれても、まともな気分で日々をすごすことはできそうにない。
お前は、こうやって死ぬんだ(殺されるんだ)と教えられることが、恐怖を助長するように思う。自分の死に方を知らないことで、我われは死を直視しないで過ごすことができるのだ。
多くの現代人は、自分の死をあまり気にせずに生きているわけだが、ある種の見方では、日常的な暮らしの中に、ふと訪れる死があるということが、救いでもあるのかもしれない。