新書を読むシリーズ「知の分類史」久我勝利 中公新書ラクレ

新書を読むシリーズ「知の分類史」久我勝利 中公新書ラクレ
著者は松岡正剛の門下。副題が「常識としての博物学」だったので、博物学史の本かと思ったら、分類法の歴史の本であった。博物学・百科事典・中国と日本の「類書」・図書館の図書分類について、それぞれの分類法を歴史記述を中心にして明らかにするという内容だ。目玉はさまざまな本で試みられている分類の実例が出ていることで、目次集のようなものである。
第一章「博物学の豊穣」では、プリニウスの「博物誌」からフンボルトの「コスモス」までが紹介される。多くは個人の編者の偏執的な仕事で集められた知の体系である。「生きるためにムダな知識ほど珍重されるという段階になって、初めて博物学は博物学らしくなる。」
二章「百科事典の歴史をひもとく」はアリストテレスから「百科全書」まで。しかし、初期の百科事典はいろいろな学問を抄録して簡単に習得できるようにしたものか、辞書のようなものだったらしい。体系的な百科事典は、やはり18世紀ごろまではなかった。「百科全書」は「これまでの神を中心とした知識体系に代わって、人間を中心とした諸学の再編成を成し遂げ」た。もともとはイギリスの百科事典の翻訳プロジェクトだったというのははじめて知った。
第三章「東洋の百科事典」は中国の「類書」とその日本における受容が語られる。類書とは「幅広く書物のなかから記事を収集し、その記事をテーマごとに分類して編集した書」だそうである。中国で盛んに作られた。「太平御覧」などの類だ。「西洋の百科事典では、新しい情報をどれだけ盛り込むかが勝負となった」が、「類書は、古の聖者賢人の言を重要視したのである」。
中国の類書は日本でも利用されたが、独自に編集したものもある。その場合も多くは、集められる種本自体は中国の書物が利用されたようだ。代表的なものは「和名類聚抄」「和漢三才図会」などだ。「古事類苑」は「わが国固有の文化を集大成する目的」で、「日本の古典、古文献などを中心に編纂された」明治時代の類書だ。
第四章「図書分類――あまりにも広い「知」の森の中で」は図書館における図書の分類法について。本自体を棚に分類する「図書分類学」と蔵書などのリストである「目録学」があるとされるが、ほとんど説明はなし。「書物という「知」はあまりにも広い」から、「「雑」という項目を設けること(中略)こそは、本の分類史のなかで最大の発明」だそうだ。あとは十進分類法やコロン分類法が簡単に述べられて、大宅図書館が独自の方法をとっていることが触れられているだけ。本屋としては、図書の分類についてもっとページを割いてほしかった。個人の蔵書の分類とか、本屋の陳列とか。
第五章「分類の可能性について」はあとがきてきなもの。「分類とは、一つの世界観である」「分類は、複雑なモノゴトを単純化する方法なのだ」「分類法というのは恣意的なものだから(中略)いくらでも分割する方法はある」「(分類方法をいろいろ考える)訓練をしておくと、発想力は飛躍的に高まる」などと主張されている。
あとがきを除けば、分類の実例に関する歴史的記述に終始していて、分類という知的営みに対する思想的な切込みには欠ける。