オーネットの音は乾いていて、ハードボイルドの文体を思わせる

「一箱古本市」が街おこしに利用され、蚤の市では若い女性が自分の集めた古書を売り競っているのに、どうして古本屋のお客が減るのか不思議だったが、現状は古本そのものというより「古本屋」が商品化している状態だと考えれば、それも納得がいく。
トム・ソーヤのペンキ塗りの話を知っているだろうか。トムが罰としてペンキ塗りをさせられていると、友達が対価を支払ってでもやらせてくれと言ってくる。古本屋も仕事でやる人もいるが、楽しみとしてやる人もいる。
仕事をして報酬を得られるのは、誰かが対価を支払ってもやってほしいと思っているからだろう。自分ではできない仕事だから他人に頼む場合もあるが、自分でもできるけれど時間が足りないから他人に任せる場合もある。商売なんかは後者の場合が多い。
時間がないのは、他にもやることがあるからだ。失業率が低ければみんな忙しいけれど、仕事がない者にとっては対価を払うほどの魅力がない商売はいくらでもある。レストランでは、コックが食事を作ってくれるけれど、自分で作れば安くできる。女性もみんな職業を持つようになって外食産業が発達した。
職人仕事は素人では不可能なことが多い。日曜大工を楽しむ人もいるけれど、大工の仕事はなくならない。犬小屋や塀ぐらいなら素人でも作れるが、家を建てるとなるとプロでなければなかなかできない。そこには技術や規模や周辺職業との連系など、素人にはまねのできない要素があるようだ。
一方で、仕事を楽しむためには、成果が自分のものであることが必要だ。強制された日曜大工はありえない。成果が他有化されている状態を労働疎外という。職業としての仕事はこの状態に陥る危険性がある。雇われていればなおさらだ。自営業者も疎外状態から自己を救う努力を続けないと、ただお金のために仕事をしているようになる。それではモチベーションが続かない。
職人的要素がある古本屋は、商人のなかでは、やはりプロは違うと思われる何かを持ちやすいはずだ。その要素の多くは経営規模によって生まれると、私は思うのだがどうだろうか。
フリー・ジャズのオーネット・コールマンが亡くなった。たいてい私の聴く曲を嫌う女房殿も、オーネットは好きだという。今日、「jazz来るべきもの」を改めてききなおしてみると、アルバート・アイラーやコルトレーンなどの他のアメリカ・フリー・ジャズの人々が怨念のこもったような演奏をするのに較べて、オーネットの音は乾いていて、ハードボイルドの文体を思わせる。そんなところが女房殿の好みなのかもしれない。