新書を読むシリーズ『なぜ正直者は得をするのか―「損」と「得」のジレンマ』 (幻冬舎新書)

新書を読むシリーズ『なぜ正直者は得をするのか―「損」と「得」のジレンマ』 (幻冬舎新書)
・一章 人間は「利己主義者」ではない
まず、「人間は所詮、我が身だけをかわいがる利己的な存在なのだ」という信念や言説が、社会の至る所に浸透してしまっている一方で、現実の生身の人間としての私たちは“決して利己主義者ではない”のだ、と主張される。


自分自身の利益のことを一切考えないような人はいない。しかし、多くの人はたとえ損になる場合でも、社会のルールや約束を守ったり、復讐したり、公平に留意したりする心理的傾向を持っている。人間が利己心以外の種々の配慮を持つ存在であることは、実証的に否定しがたい事実である。
しかも、そういう結論を直感的に理解していて、私たちは「他の人は利己主義者だ」とは(心の底では)考えていない。
・二章 「人間は利己主義者ではない」と考えてみる
もし私たちが「人間が純粋なる利己主義者である」という信念を携えているなら、他人の好意を信じることもできず、常に他人を疑いの目で眺めなければならない。その結果、人間関係が非常にぎくしゃくしたものとなり、自分自身に利他的な意識や道徳的な意識が備わっていないと信じるようになってしまう。そして、本当に純粋な“利己主義者”に近づいていってしまう。
成果主義、拝金主義、市場原理主義、期制緩和論などは「人間は利己主義者だ」という信念に基づく制度や、社会政策だ。そういうものが幅をきかせた結果、実際に“利己主義者”にとって生きやすい社会がつくられていく。
改革すべきなのは、社会の構造ではなく「人間は利己主義者なのだ」という信念の方だ。
・三章 跋扈する利己主義者、馬鹿を見る正直者
人々があえて「利己主義者」として振る舞えば、人々は「得」することができる。なぜなら、人間は誰もが「正直者」の顔を持つので、他人につけ込まれるスキがあるから。(正直者が馬鹿を見る)
全員が利己主義者として振る舞った場合は、全員が正直者として振る舞った場合より、一人ひとりが得られる利益(利益の総量)は小さい。(社会的ジレンマ)
社会的なジレンマ問題は深刻になりつつある。社会的な規範が制度のレベルでも意識のレベルでも「希釈化」したのがその原因。利己主義者はますます跋扈する勢いだ。
・四章 敗北する利己主義
しかし、利己主義者は敗北する存在だ。まず、利己主義者は不幸である。そればかりか、損得という基準でも利己主義者は必ず敗れ去るのだ。
その原理は
1,利己主義者は他者と助け合うことができない(互恵不能原理)。
2,利己主義者は、いかに取り繕うとも、利己主義者であることが「ばれて」しまい、自滅してしまう(暴露原理)。
3,利己主義者に支配された集団は、集団ごと自滅してしまう(集団淘汰原理)。
「実質的に自己利益を最大化しようと考える“真に賢明なる利己主義者”であるならば、“自己の利益の最大化を目指す”という心的傾向を“消し去る”ことこそが、合理的なのだという結論を得るはずだ。」
・五章 利己主義者は自滅する
集団淘汰原理の説明。
前の二つの原理は利己主義者を社会から排除する原理だが、排除しきれなくなって社会全体が利己主義者によって支配されるようになると機能しなくなる。そのようになった社会は、正直者ごと全滅してしまう。利己主義に冒されつつある近代社会、とりわけ日本に関しての警鐘。
・六章 利己主義と向き合う力
全体の要約。利己主義に対峙する「公的な精神」についてあらためて述べられる。
・「はじめに」で全体の展望が示され、各章の終わりにはポイントが説明されている。さらに、第六章は全体の要約になっていて、非常にわかりやすい。具体的事例についての議論はなくなってしまうが、時間のない人は第六章だけ読めばそれでも十分だ。
ただし、規範の「希釈化」という言葉はわかりにくい。希釈と言うのだから、公的精神の絶対量は変わらないが、何かに薄められて効果を発揮しにくくなっているということだろうか。それよりも、著者が本書の中で繰り返し述べているように、「人間は利己主義者だ」という信念の蔓延こそが原因のようにおもえるのだが。
それでこそ、著者が本書で試みているように、「人間は純粋な利己主義者ではない」という事実を正しく認識することが、普段の私たちの言動を大きく左右し、ひいては正直者にとって生きやすい(集団淘汰にさらされない)社会をつくっていくという戦略が生きてくるのではないだろうか。