父と子と聖霊の「聖霊」は「気」のことだった

きのうは、
少し遅刻して店に到着。改装の構想を佐藤店長と話し合ってから、春木屋でわんたん麺。2時「日本の古本屋」のネット広告を相談している広告代理店の人と面会。3時、システム会社と今後のサポートについて打ち合わせ。4時、「日本の古本屋」事業部役員会で消費税対策などについて話し合い。5時、新規事業部員候補の方と面会。6時、東京古書組合の合同役員会。7時30分、版元ドットコムの方とコラボ事業について意見交換。その後、組合職員の方にお願いした作業の確認をして、9時頃から会館近くの焼き鳥店でもつ鍋などをいただく。ビール2杯と芋焼酎のお湯割りを2杯。キリスト教で言う三位一体の「聖霊」と東洋の「気」の異同を端緒にして東アジア人の宗教観について語り合う。井の頭公園の池を一周してかいぼりに降った雪を見てから帰宅。
というような一日だったので、今日は一日家にこもりヨガの眠り。
私は仏教徒だが、インド発祥の宗教である仏教は実は日本人の感覚になじみにくいのではないかと思う。仏教の生命観は魂が肉体から離れて輪廻するという思想だから肉体の先祖子孫の関係は逆転しうる。対して、日本では亡くなった人はいつまでも草葉の陰で見守っていて祖先崇拝が強力だ。むしろキリスト教のように、死んだ人は(最後の審判の日まで)肉体とともに土の下で眠っていると考える方が日本人にはしっくりくる。
また、仏教は物事には必ず原因がある(因果、縁起)という論理を持っている。 ところが日本語では「窓が割れた」のように物事が無原因に起こるかのような表現が好まれる。こういう考え方は自然外道(じねんげどう)といって仏教では異端だ。
ところで、キリスト教徒でも「お母さんは星になった」というような表現をするらしい。死んだ人が星になるのはギリシア神話だから、キリスト教(元来セム人の宗教である)の教えとは明確に違うけれども、ヨーロッパ人の感覚からするとむしろそちらの方が自然な考えなのかもしれない。
というわけで、日本人が仏教徒であるためには、実はかなり自覚的な宗教感覚が必要なのではないかという話でした。