東京でいま成功している本屋は、個別の本に対するこだわりを捨てている。かれらは本という文化全体を愛しているのではないだろうか。

きのうの東京古書組合中央線支部のイベントで、本という工業製品のコモデティに注目して効率化を推進するノースブックセンター北野さんと、個別の痕跡や偶然性を含む古本のユニクイティに注目する千章堂林さん、いわゆる本ではないものや見たことないものを追い求めてコモディティから脱出しようとする悠山社橋本さんの、三すくみの議論がおもしろかった。

北野さんは「ビジネス」という言葉を多用し、主観を排除することで採算性を高め、競争に打ち勝っていかなければ事業の継続そのものが危うくなると強調する。しかし、その先には大資本による寡占が予想されて、ビジネスサイクルの終焉もすでに予見されているとも言う。

林さんは、50年以上も営業している立地などさまざまな好条件があることを前提としつつも、従来型古書店が培ってきた古本屋の目利きの方法がいまだ有効であることを強調する。

一方、橋本さんは店売りから撤退し、仕入れも客買いではなく市場仕入れを中心とすることで、流動性の低い品物を扱える仕組みを作り上げたそうだ。ただし、高齢化した従業員に支えられたもので、事業としての発展性は少ないという留保があるとも言う。

資本主義では金が一カ所に集まるように、情報社会では情報の秩序づけが一カ所に集まる。北野さんは、Amazonのような大組織が本気で古書の買取を始めたら、凡百のネット古書店はひとたまりもないと言うが、僕は必ずしもそうではないと考えている。本は物体だから、情報と同じようには扱えないし、Amazonはマーケットプレイスで手数料を稼ぐ方が、自分で商売するよりリスク無く儲かるはずだ。

林さんは、古書店は隙間産業であり、千章堂という店も阿佐ヶ谷という地域のなかで成り立っているという。しかし、ラジオ・テレビだけではなくネットやSNSがある現在、「古本屋の親父」が知識の番人であることはむずかしいだろう。なら、小さな地域に一般教養を伝えるのではなく、少数派の人々を広範囲から集めて、自店のファンを作り上げるタイプのセレクトショップになるほかないのだろうか。確かに、大量出版時代が終わって20年以上経つ現在、本屋のセレクトショッップ化は必然の流れだが、そのようなセンスを持ち合わせている人は、アーティストとしてもやっていけるような一部の人なのではないだろうか。

橋本さんが言うような、非コモデティ商品がどれほど発掘されうるのかはわからない。紙に印刷されたものは本以外にもたくさんあることは間違いない。しかし、それが必ずしも市場で発見できるかどうかは疑問だ。

本と雑誌の市場規模は、あわせて1兆6000億円ほどだ。古本の売り上げは十分の一程度としても1500億円以上ある。それに対して、東京の市場の出来高は30億円程度だ。おそらく、全国の取引の半分は東京でなされている。市場での仕入れ値がその商品の売上の半分程度と考えると、市場を通る本は実際に売れる古書のうちの1割以下という事になる。つまり、ほとんどの古書は市場を介さずに取引されているのだ。

橋本さんは、市場の充実を訴えておられたが、その方策についてはあまり聞けなかった。

ぼくは、本屋のやりがいについて、北野さんに質問したのだが、その真意は「本が好き」という言葉を引き出すことだった。だが、北野さんはストイックにビジネスの用語で答えた。

本屋は、なによりも本に囲まれていることが楽しい。そして、自分が値付けした本が買われていくときに、お客さんとの間で価値観の共有を感じる。「その本いいよね」。

だが、いま時代は本屋が一冊一冊の本にこだわることを許さない。本の価格は暴落して、利用価値と交換価値が乖離している。すごく役に立つ本なのに、あまりにも安く取引されているのだ。「そんな値段なら売りたくない」と、本を手放す買取のお客さんだけではなく、古本屋自身も思っている。本屋は、個別の本にこだわるほど、本を売りたくなくなるのだ。お客さんは、一冊しかない本を店主と取り合うライバルになってしまう。

一方で、ささま書店、古書ワルツ、ノースブックセンターなどの成功している店は共通して、個別の本へのこだわりを捨てている。ささま書店の社長である伊東さんは、自分の店に入る程度の本は珍しい本ではないから安くして速く売ってしまうのがよいと言っている。つまり、個別の本にこだわることを捨てて、あるいはその本を手元に置くことに固執しないで、たくさんの本の全体の流れを見ているのだ。

一切ネットを参考にしないことで有名な伊藤さんとネット書店の先端を行く北野さんと、実は同じような考え方をしている点で興味深い。

本は無数にあるのに、人生は限られていて、大半の本は読めないままだ。だから、個別の本に判定を下すのはどんな本屋でも無理だ。本屋が敬意を表すべきなのは、本という文化全体になのだ。

本屋が、一冊一冊の本へのこだわりを捨てるのは、大変むずかしいことだ。彼らが、それを自然にできたのか、何らかの修行をへて獲得したのかは知らない。自分の店の本に対して、そういう客観的な態度をとることは、僕にはとうていできそうにない。