驚きのある商品を作らなければ売れる店にはならない

読者から見たら、本は内容を買うものだろうけれど、出版社や書店などの「売る側」からしたら商品の本質は入れ物としての紙の束である。紙の順序が間違っていたり欠落していたりしたら返品の対象だが、内容が陳腐でも金は返さない。映画館が、映画の内容ではなく、ちゃんとした上映に責任を持つのと同じである。ただし、つまらない映画ばかりかけていたら客が来なくなるであろう。つまり、中味はおまけのようなものだ。バーのマスターの会話と同じである。飲み物が商品だが、客がそれを買うのはマスターと会話したいからだ。会話が弾まなかったからといって、金を払わないわけにはいかないが、次はもう来ない。古本も同じである。読めないような破れたり汚れたりした本を売ることはないが、読むに耐えないくだらない本だって売る事はある。しかし、そんな本ばかり置いていたら、売れない店になるということだ。
価格も中味に付いているわけではないから、このおもしろい本がこの安さ! などと考えるのは、実は無意味だ。内容と値段は、本当は関係がない。新人タレントを使ってやっつけで作ったCDも、巨匠が練りに練って録音したCDも同じ値段ではないか。
著者はたぶん中味を売っているのだろうと思う。しかし、売る相手は実は出版社だ。そして僕ら読者は、出版社から本を買うしかない。著者を応援するつもりで買っても、売上は出版社に入る。売上が伸びたのに気をよくして、出版社がその著者の本をまた出してくれればいいが、もしかしたら、儲けで他の著者を発掘しようとするかもしれない。それは、わからない。
国会議員を選ぶと、その国会議員が総理大臣を選ぶ。国民は直接首相を選ぶことができない議院内閣制だ。国民と国会議員と総理大臣の関係は、読者と出版社と著者との関係と、少し似ている。
いつもは木曜日にやっているリニューアル業者との打ち合わせが、今週は全古書連大市のために今日になった。古書会館が使えないので、中央大学の何とか会館という立派な建物に集合。いつものごとく、時間を延長して3時半まで。そのあとの、事業部だけでの話し合いは、みんなの都合が付かず、30分程度で終了。
店に戻って、少しだけ仕事ができた。売場にはみ出ていた未整理商品も、佐藤店長のがんばりでほぼ片づいた。通常は1000円前後で売る古い映画パンフレットを佐藤店長が200円で投げ売り。少し揉めたが、やはり彼女が言うように、価格であれ品揃えであれ驚きのある商品を作らなければ売れる店にはならない。