洗濯と分類
きのうの朝メシは、子供たちにはパン(母親Kが焼いた)親たちには玄米と、別々メニュー。体重54.3kg。
年に一度の高校演劇部の大会があるため休日ならざる空気がわが家を流れる。夕べの深夜なぜか急に風呂に入ったNが出かけた後、全員シャワーを浴びて頭を洗う。
本日の洗濯物干しは洗濯機3回分。すでに干してあるものをまずたんすにしまう。わが家のたんすは、私・K・N・Rと所有者でまず分けて、さらに下着・シャツ・下半身に着るものと着方で分けている。大方の家庭で、同じような方式になっているのではないかと思う。
いわば「構造的」な分類で、合理的、探すものを見つけるのにはすこぶる都合がいい。だが、「使う」という点においてはどうだろうか。靴下は靴下、パンツはパンツと分類されているので、その日の着替えのために結局すべての引き出しを開けなければならない。カットソーの段をは一枚のブラウスのために引き出されて、他の衣類はすべて(いわば無駄に)見られるだけだ。
『超整理法』の野口悠紀雄が言う、コウモリ問題とその他問題(だったけ)のようなアポリアがここにも存在する。下着としても使うが、場合によってはジャケットの下に直接着る「見せ下着」=中間着となるもの、スポーツウエアとしても普段着としても使うTシャツなどは複数の分類になるのでコウモリ問題、エプロン、バンダナなどはそれを分類するほど仲間がなく項目を作れないので、どこにも分類できない「その他問題」になってしまう。
箪笥にしまう方法は他にもあるのではないかと思う。セットになっているパジャマの上下は必ず組み合わされるのだから、一緒にしておいたほうがいい。透ける柄物のブラウスに必ず合わせるキャミソールがあるなら箪笥の中で重ねておけば着やすいじゃないか。重ね着としてコーディネートしたTシャツと上着もそのままハンガーに掛けておきたい。
こうした、いわば「オブジェクト指向」の収納が有効の場合もあるはずだ。と言うより、自分が着るものだったら、必ずそうしておきたい。玄関で、帰りのために履物を揃えるようなものだ。
だが、ここでハタと気づく。
この箪笥を使うのは自分だけじゃない。たしかに、洗濯物をたたんでしまうのは私の役割だから、分類するのは私で、ここから衣類を取り出す人は、私がどのようにしまったのかを予想しながら、最もありそうな場所をまず探すだろう。
その、最もありそうな場所とは、僕の主観ではなく、誰もが認めるルール、つまり客観的な分類だろう。だから、たまたま僕と彼女の気があって、同じコーディネートを考えるとしても、それ以前に「一般的にこれは下着だな」といった分類に基づいて彼女は引き出しに手を伸ばすに違いない。
ここで、野口由紀雄の方法の本質が浮かび上がってくる。図書館のカードはあいうえお順に並んでいる。それは、きわめて鈍重で間抜けな方法だ。「愛」に関することはもしかしたら「恋」や「執着」の項目に並んでいるかもしれない。そもそも、愛の項目の構成員は多すぎて、分類の用をなさないかもしれない。
だが、あいうえお順は「知らない人がいない」という点において最高の方法である。ルールに従っていれば、必ず結論に到達できるならば、あとは人間の努力の問題だ。
だが、僕一人なら、どうだ。客観的なルールは要らない。僕の認識にもっとも合致した方法をとるだけだ。そのとき、「超整理法」が現れるのだ。つまり、個人の頭の中では情報の順番がもっとも大事だということだ。鍵になる記憶より前かあとかは、たいていわかるだろう、というのがあの本の趣旨だ。
複数の人で使うなら話は違う。図書館で時間順ファイルをしたら、人気投票にしかならない。他の人の記憶は知ったこっちゃないから。個人で使う情報分類法と、複数の人で使う情報分類法は、本質的に違うのである。
というわけで、話が長くなったけれど、服装のしまい方として、オブジェクト指向を考えたけれど、あまりうまくいきそうもない。なぜなら、必ず組み合わさり・かつ・他の組み合わせはない・まとまり、が意外に少ないからだ。
コンピュータ上のデータならば、同じものを複数コピーして、それぞれの場所に格納しておけばいい。それだと情報が冗長になるが、記憶容量や処理スピードなどに余裕があれば問題ない。だが、物体相手の場合は、冗長な方法はとれない。組み合わせは一意的でなければいけないのだ。
そうすると、組み合わせられるのは、靴下の左右とか、コーディネートされたランジェリーとか特殊なものしかないのだ。その他は、主観的には組み合わさるけれども、必ず絶対とはいえない組み合わせなのだ。意外な組み合わせが、かえっておしゃれな場合もある。人生はさらに難しいのである。
などと考えながら、服を箪笥にしまい、新たな洗濯物を干していたら、午前中が終わった。へとへとである。洗濯物干しのBGMはエリオット・がーディナー指揮の「聖母マリアの夕べの祈り(新盤)」、作曲はバロック初期のモンティベルディだが、合唱があまりに美しい。がーディナー率いるモンティベルディ合唱団で聞くとルネサンスの音楽のように聞こえる。和音の快感はタリス・スコラーズにも劣らない。あまりの美しさに、洗濯物を干し終わったあとあらためて二枚目を聞きなおす。
子供たちの母親Kに言われていたベランダの浸水を調査することもできず、へとへとになって、午睡一時間。昼食の声で、目覚める。行列のできるラーメン。にんにく辛子つき。トッピングは長ネギ。
立川に息子Nの芝居を見に行く。Nの芝居は前に見たときより、間のとりかたなぢが、格段によい。立ち位置など、演出上の難はいくつかあり。帰りは車に舞台装置をつんで、Nの高校へ。受け取った生徒さんたちはまた立川に戻るらしい。送ってやればよかった。気がきかなくて申し訳ない。
店にちょっとだけ顔を出して、帰宅。夕飯は餃子。開脚スクワット50回。就寝音楽は「ミサ・バンジェ・リングァ」タリス・スコラーズ。